失ってから初めて思った。

何故もっと優しくしてやれなかったのか、と。
何故もっと掴まなかったのか、と。




何故。












『ああもう、換気くらいしなさいよ!』
『ソファーで寝ない!掃除の邪魔!』
『ゴロゴロしてるヒマがあったら伝言板見てきてよね!』



「うるせぇな……」



何時間もたっていたらしい。
テレビは点けっぱなし、窓は閉め切ったままだった所為で熱気が室内に篭もり額には汗をかいていたが、時計を見ればとっくに夕刻を指している。
昼間に開けたビールの炭酸はとっくに抜けていた。喉の渇きに任せてそれを飲み干すが逆に気持ちが悪くなり僚は顔を顰めた。

「…暑ッ…。」

窓を開けようかと立ち上がった時、目に飛び込んできたテレビの画面。







「……というワケで、今話題のこのお店には――――」





新人リポーターらしい、やけにはしゃいだ女が菓子店の中継をしている。
彼女の指先をカメラが追うと、そこには菓子店で商品を選ぶ客が映される。

そこに、一度だけ見た少女が映っていた。


『ごめんなさい、ごめんなさい!』

あの時、母親にしがみつきながら泣きじゃくった少女。
香が自分の命と引き替えに助けた少女。

1年経って、少し大人びたように感じられたが、紛れもなくその子だった。
10歳前後と見られるその少女はあの時の涙はどこへやら、微笑んで母親と手を繋ぎ、母親の持つケーキの箱を眺めている。



「……」



あれから1年。
この子は忘れたのだ、自分を救った一人の女がいた事を。
覚えていたとしても、忘れようとしているに違いない。




じゃあ、香は?
あいつは何故、死んだんだ?




テーブルに置いてあったパイソンをほぼ無意識に掴む。
それからサイレンサーを付け、家を出た。









−*−*−*−










「良かったわね、間に合って。」
「うん!」

談笑しながら夕焼けの新宿を歩く母娘。
丁度いい具合にそれを見つけ、静かに後を追う。

途中母娘は花屋に立ち寄った。


「これとこれ…あ、この赤いのも下さい!」
少女は大量の花を買い求め、自分の財布から代金を支払った。

「あら、ケーキ」
花屋の店員が少女の持つケーキの箱に気付き、声を掛ける。
「ケーキにお花…そうか、お誕生日ね?それともだれかのお見舞い?」
「……」
少女は困って母親を見る。
母親は娘に微笑むと
「そうです」
とだけ答えた。
その返事に、どれに対する返事なのかを解りかねた店員は曖昧な苦笑だけを浮かべた。






やがて二人はそこを出、車通りの多い道へと入っていく。
僚は静かにそれを尾行しているうちにある事に気付いた。


(ここは……)


かつて見慣れた道だった。
歩き慣れた道だった。
だが、あれ以来歩こうとはしなかった道だった。

僚の思った通りの場所がその母娘の目的地だったらしい。









その場所。

全身の鼓動が早くなる。
夕焼けを背にしているにもかかわらず、頭の中で雨音が強く響く。

手だけは最期まで白く綺麗だった事を今更ながらに思い出す。
香があの日少女を助け、果てたその場所だった。



「香…」



乾いた唇が一言だけをやっとで紡いだ。



交差点の脇には小さな花瓶。
シロツメクサやらタンポポやら、道端の花が小綺麗に差してある。
少女はその場所にしゃがみ込むとまず手を合わせた。
それから花瓶の小花を取り除き、持ってきたゴミ袋へとそれを放る。

「喜んでくれるかな?」
少女はしゃがんだまま、背後の母を振り返る。
母親は泣き出しそうな顔で微笑むと頷いた。


二人を見て、僚は動くことが出来なかった。


(今…更…)


「あ、貴方は…」
立ちつくす僚に母が気付き、一年前の記憶を辿り
「冴、羽…さん」
呟き、会釈をした。
僚は反応に困ったが、取り敢えず自分も彼女がするように頭を軽く下げた。

「お母さん、お水…」
「いつもの所で…気を付けて汲んでらっしゃい?」
「うん」

少女は僚を覚えていなかった。訝しげに僚を見上げると花瓶を抱え、小走りで横をすり抜ける。
少女がいなくなって、母親は僚に口を開いた。
「こんな事…迷惑かとは思ったんですが…。」
「いや」
それしか言えなかった。


「あの子が事故の日以来、聞かないんです。学校帰りにも毎日ここへ…。」
「……」

胸が、重い。




「夜になると…未だによくうなされます。謝るんです、夢の中で。一晩中『ごめんなさい』と言って泣き続ける日も…」

目的意識が急激に薄れていく。
自分の罪を忘れ、毎日を平穏に生きているこの母娘をどうこうする筈だった。

「最初は手が付けられない程だった。カウンセリングに通い、やっと笑顔が見えるようになってきたんです。」

娘の事を語り終えて、ハッと気付いたよう母親は僚を見た。

「申し訳ありません。一番辛いのは……」
「いや……」


胸にしまった、銃が重い。


「…もう、忘れていい頃だ」

何の為にここへ来たのか、解らなくなった。

そのうち娘は戻って来た。
少しずつ花瓶の水を零しながら。

僚がまだ其処にいた事に不審そうな視線を投げると、ケーキの横に花瓶を置き、花を生ける。そして手を合わせる。
小さな唇が紡いだ言葉は贖罪の言葉ではなかった。






「ありがとう。」






「―――――…」



少女の言葉に僚は震えた。
自分だけではない。この街自体が大きく震えた気がした。




『ありがとう』

「香…?」

居る筈もない女の名前。しかし、今まで呼んだ中で一番心地よく、彼女を身近に感じられる一言だった。
不意に指先に温度を感じて横を見た。

『ありがとね……僚』

「か、おり」
『ありがとう』

自分の指に香の指が絡んでいる。
香は愛しそうに指先に力を込め、それから僚に微笑みかけた。






『ありがとう』





「あ…」
焦点の定まらない目で少女は呟く。
「今、お姉さんが……笑った」
母親は娘の様子に驚き、意識は定かか、と歩み寄ろうとした。しかし僚を横目で見るや否や、それをやめた。



「……香!」



雑踏の中。擦れ違う人々の奇異の視線も気にせずに僚は立ち尽くし、泣いた。
香が更に口を開く。僚はその度頷いた。
一言一言を聞き逃さないように。

「ああ…」

最後に、小さく返事をする。
香は満足そうに笑った。




「大した女だよ、お前は。」











アイツがここに帰ってきた時の、居場所を作って待とう。





『もうすぐここに帰るから』







アイツの言った言葉を信じて待とう。








涙が乾くと僚は少女の目線にしゃがみ、頭を撫でながら言った。
「見えたか?」
「うん」
少女は素直に頷いた。
「…そうか。じゃあ分かるな?アイツはもう此処にはいない」
「うん。」
「だからもう、来なくてもいいんだ」
「……でも」
「アイツに言われたろう?約束は守ろうぜ」
「………うん!」


僚の手の平の半分もない、小さな小さな手。
「じゃあな。」
それを優しく取ると、握手をした。

















−*−*−*−*−







「さ…やるか」
無精髭を剃り、冷蔵庫の腐敗物を全て捨てた。
香はもう、隣に座ることも笑いかけてくる事もなくなった。だが、それでいいと僚は思う。
そして中途半端だった情報収集を再開した。






「よ、冴子。ひっさしぶり♪」
「僚!?」
「ちょっと頼まれてくれないかなぁ?もっこりサービスするから♪」
「い…いらないわよ!」


「海ちゃ〜ん。僚ちゃん来ましたよ〜」
「……僚。」
「僚ちゃんお店に来なくて淋しかったぁ?お相手したーげようか?にゃぉん!」
「き…貴様!」










香は来る。
必ず。
アイツが俺に嘘をついた事は一度もない。
だから絶対に来る。


だから今日も、俺は生きる。



























これは 深い海で、人知れず

淡い一筋の光を見つけた


哀れな男の話。

            













end


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