チャイムが乱暴に何度も鳴らされ、香は少し身構えた。
しかし直後の自分を呼ぶ聞き慣れた声に
「はーい!」
香は慌てて迎えに出た。

エプロンの端で濡れた手を拭くと、ドアを開ける。
案の定声の主はミック・エンジェルだった。


「やあカオリ、リョウはいるかい?」
「え、ええ」







先刻僚は戻ってきたばかりだ。
何処にいたのか、何をしてきたのかを香は訊かされていない。勿論訊いてもいない。
今朝の一件があったばりだ、何処で何をしていたんだと問いただしたとしてもきっと僚は答えないだろう。今は空々しい嘘も聞けそうにないと諦めたのだ。

「いるにはいるけど・・・」

帰るなり『腹減った、メシ。』といつものように言い、ジャケットを脱ぎ捨てた僚にいつものように『わかったわよ』と返事をしたきりだ。
今の時間自室から出てこないという事は、きっと
「でも…多分昼寝しているんじゃないのかしら。」
あながち間違いではないと香は思う。夜遊びに備えて中途半端な時間に昼寝をする事はそう珍しい事ではなかったからだ。
本当に夜『遊び』をするのかは疑わしい所だが。


「昼寝…という事は夜に備えているんだな、丁度良い!」
「ちょうどいい?・・・ミック」
「Oh!今日はカオリもご招待♪」
「アタシも・・・?」
「新宿でバーを開いた知人がいてね。祝い金代わりに客を連れていきたいんだ。」















−*−*−*−











「すまないね、カオリ。こんな処にまで付き合わせてしまって。」
「ううん、素敵なお店だわ。」

Thank you、とミックではなく目の前のバーテンダーが微笑んだ。
青い目をした女だった。

「彼女とは・・・」
言いかけて香は言葉を呑み込んだ。

どんな関係か?
ミックと女の間にある関係など一つ以外思いつかない。

「Oh,ちがいますカオリさん。ワタシ彼には騙されてないヨ」

メグと名乗ったその女は柔らかなブロンドをさわさわと揺らしながら香の呑んだ言葉を否定した。

「最近口説いたけどね、振られたんだ。」
ミックが苦笑しながらバーボンに口を付けた。
「当たり前。カズエ可哀想ネー」
「あら」
香が驚いた顔をする。

「カズエの友達だよ、彼女は。」
「えぇ?」
「Yes!ワタシサイエンティストしてました。」
「えーっ!?」

意外だ。
また香が言葉を呑み込む。

グラマーなブロンド美人だ。
それでいて気取ったところがなく、大きな口を開け豪快に笑う。

(科学者っていうのはもっとこう・・・)

かずえも美人ではあるがどことなく近寄りがたい凛々しさはある。
科学者の固いイメージばかりが先行していた香には、すぐに信じる事のできない事実だった。

「薬品調合よりもお酒混ぜた方、楽しいし美味しい事気付きましタ。」
シェイカーをガシャガシャと振ってメグが笑う。

「あはは!適職ね。」
屈託のない笑顔に癒される。
香はつられるように口を大きく開け、笑った。

「カズエが出張でいなくてね。カオリに来て貰えてよかったよ」
「ふふ、こうして飲むのも時々なら楽しいわね。」
「リョウがアレじゃなければ・・・だろ?」
「「・・・・・」」

カウンターに肘付きながら、二人同時に後ろを振り向く。

「ねぇ彼女〜、どっから来たの?この店初めて?リョウちゃん一発・・・じゃなかった一杯奢っちゃう〜♪」

「そうねぇ・・・」
盛大に溜め息を吐いた香が僚の頬を抓ってカウンターまで引きずると、自分とミックの間に座らせた。

「ででででで痛ぇッ!」
「大人しく飲みなさい!」
「だーってぇ、酒はもっこりちゃんと楽しく飲むモンだろお?」
「アタシが相手で悪かったわね!」
「でもメグちゃんがいるから僚ちゃん嬉しい〜♪」
「手を出すな、手を!」
「メぇっグっちゃあ〜ん!」
「やめんか!かずえさんに申し訳が立たんだろこのバカー!」
「まあまあ」

ミックが仲裁に入り、二人はやっとでグラスを手にした。

「今日は俺の奢りだ、リョウもカオリも楽しく飲もう!」

楽しく、ね。

きっとあのままアパートに二人いたとしても何も変わらないだろう。
ミックが来てくれた事は好都合だったのかもしれない。
香は気持ちを切り替える事にした。


「じゃあ、改めて乾杯!」
3人グラスを静かに重ねる。
香はちらりと僚の横顔を盗み見しつつ、サイドカーを一口飲んだ。














−*−*−*−













「・・・あんた達って」


何杯目だろうか。
笑顔のバーテンに勧められるがままに様々な種類のカクテルを飲んでいた香は、自分の倍以上は飲んでいるであろう男二人を呆れた顔で見やった。

ロックだのストレートだのボトルで一気のみだの滅茶苦茶な飲み方をしていた二人だ、既にできあがっているのも無理はない。

「結局こうなるのよね・・・」

後から来た見知らぬ客を巻き込んでのどんちゃん騒ぎが始まっている。

「なははははは!もういっちょ!」
半裸で頭にネクタイを巻き付けているミック。僚に至っては全裸寸前だ。
「あーっ、パンツは脱ぐなパンツは!」
腰に手を当てた僚に、慌てて香がシェイカーを投げつけた。



「もう・・・ごめんなさいねメグさん。」
「No problem!楽しいデス、いい事デス。」
メグはまた大きく口を開けて笑った。

「それよりカオリサン、次はこれ飲みます。」

カクテルグラスがそっと目の前に置かれ、香は嬉しそうに「これは何?」と、メグに尋ねる。

「ホワイト・レディ」
「へぇ〜!綺麗な名前」
「カオリサンのイメージですネ。」
「アタシ?」
「Yes!キレイ女デス、カオリサン」
「あはは、綺麗女!サンキューサンキュー」

香はメグに負けじとオーバーアクションでお礼を言うとそれに口を付けた。

「ん」

ジンが強めのそのカクテルは洗練された味がした。

「おいしい!」
「ドライジン強めです、ゆっくり飲むがオススメです。」



「お、いいモノ飲んでるじゃないか」

カウンターに一人、戻ってきたのはミックだった。

「俺にも一杯」
「OK」

相変わらずネクタイを頭に巻いたままのミックを見て、どうしてこの男は日本人の変な習性を好むのかと暫し悩んでしまう。

「このままだとリョウに潰されちまう」
ちらりと背後のどんちゃん騒ぎに目をやった。
心底楽しそうにテーブルの上で手を叩き踊る男。まるで変態にしか見えないのが哀しい。



「・・・これがスイーパーだとはね。」

メグが一旦奥に下がると香はぽつりと呟いた。

「道化もなかなか難しいモノさ、カオリ。」
「知ってるわ。」
「何かあったのかい?」
「・・・・・・」

何かあればよかったのに。
強めだと忠告されたにも関わらず、香は無言でカクテルを飲み干す。

「おい、カオリ―――」
「お手洗い。」

立ち上がると頭がぐらりと大きく揺れた。
メグの作るカクテルはどれも美味しかったから調子にのって飲み過ぎたかもしれない。
薄暗い照明の中、手を貸そうかと声を掛けたミックに大丈夫と言うと、壁伝いに化粧室を探した。










−*−*−*−*−*−











個室から出ると蛇口を捻る。
昔ながらの物件を改造したその店はトイレにまで資金を回す事ができなかったようだ。
店のシックな雰囲気とは相反してタイルのくすみとひび割れが目立つ和式便所。
ハンドソープではなく、固形のレモン石鹸が一つだけ置かれていた。
懐かしさに少しだけ笑みながら、今度来た時にはさりげなくトイレの事を話してみようと香は思った。
潔癖な日本人にとって、トイレは店を選ぶ大条件に含まれるのだ。

鏡に映った自分は頬が大分赤い。
「結構飲んだものね・・・」

あと少ししたら酔いどれた相棒の首根っこを捕まえて帰ろう。嫌だと言ったならハンマーを見せればいい。
ああ、その前にミックに礼を言わなければと思った。

今日の酒は幾分か・・・いや、かなり気晴らしになったのだから。





トイレを出ると相も変わらずどんちゃん騒ぎが繰り広げられている。
テーブルに人だかりができ、僚の姿はよく見えなかったが、今は見ようとも思わない。

香がカウンター席に戻るのと同時にメグが新しいカクテルを差し出した。
薄めのオレンジ色をしていた。


「これは?」
「BETWEEN THE SHEETS .」

メグではなく、隣に腰掛けていたミックが答えた。
どうやら注文したのはミックのようだ。

少し遅れて頭の中が和訳を始める。

「これを飲んだら帰るといい。」
ウィンクされて香の頬が更に赤く染まった。

「欲求不満の顔をしているよ、君もリョウも。」
「な、そっ、そんな事!」
「照れない照れない。日本人もソコはオープンにしなければいけない。な?」
「Yes!」

ミックがメグと目を合わせて笑う。

「Mrサエバ、カオリさんすごく愛してます、解ります。」
「う、嘘よ、あーんなモッコリ男・・・あ、っともう帰らなくちゃ!」
「BETWEEN THE SHEETS?」
「ち、ちがうんだから!」

恥ずかしさから勢いよくカクテルを口に含む。
レモンの仄かな香りと共にアルコールが一気に流れ込んでくる。

「・・・ッ」
「カオリ、カクテルはゆっくり飲むものさ」
「ミックがからかうから―――」



からかうから意識してしまう。

何日触れていないだろう。
何日虚しくなっただろう。
自分だけだろうか。

僚は。



僚は・・・・








ハッとしてテーブル席を振り向く。



「!」



まさか。

嫌な予感に今度はミックの方を向く。
出会った頃の様な、温度の低い目をしていた。







「ミック貴方!」

アルコールと怒りが急激に頭に上っていくのを感じるが構う事がない。
香はカウンターチェアを倒すようにして立ち上がった。


「騙したのね!」
「そんなつもりはない」
「じゃあどうして!?どうして僚が・・・!」
「座るんだ、カオリ」

「どうして僚がいないのよ!」

「座るんだ」


射るような視線に香が居竦んだ。


「確かにリョウは此処にいない。」

「ど・・・こ・・・」

声が震える。

「知りたいかい?」
「と・・・然・・・」
「何処まで知りたい?」
「―――――・・・」


震えた声は、最後に喉の奥で潰れてしまった。

「君はリョウのパートナーだ。確かに知る権利はある。」
「・・・・・」

「答えるよ。何処まで知りたい?」




香の頭の中。
ふつ、と何かの切れる音がした。


「自分で考えるわ!」

手元のカクテルを引き寄せ、ミックの顔に浴びせかける。
ミックが怯み、殺気が削がれたのをいい事に、呪縛から逃れたかのように香が駆け出した。









香の去ったフロアはシン、とテーブル席までもが静まりかえる。
静寂を破るようにカナダ訛りの英語が響いた。

「これで顔を拭いて頂戴、ミック」
「はは・・・リョウとの約束破っちまった。」
「良く解らないけれど、やりすぎだと思うわ」
「あの位がいい薬さ。カオリにも、リョウにもね。」
「でも・・・」
「問題ない、あの程度でどうにかなる二人じゃないから」

悔しいけどね。

ミックは苦笑しながら顔を拭いた。


「ところでメグ、邪魔者はいなくなったから浮気しよう、ウワキ♪」

ミックの頭上から二杯目のカクテルが降り注いだ。














−*−*−*−*−


















足が縺れる。
視界も霞む。
全身が心臓と化した様に大きく脈打つ。

それでも香は走った。
当てもない無駄な行為だという事は解っていたが、それでも走った。

何処に行けばいいのか解らない。
それでも今こうしている間にも僚が『仕事』をしている事は確かだ。


「あっ」

ついに縺れた足が動かなくなり、派手に転んでしまう。



「ちょっと香ちゃん、大丈夫!?」

新宿界隈では大分顔の知れている事もあり、往来に立っている客引きの女が慌てて駆け寄ってきた。

「あーあ、すりむいちゃって!ウチ来なよ、手当してあげるから!」
「あはは、大丈夫大丈夫!舐めときゃ治るから!」

それを断ってから人目のつかない適当な路地裏に駆け込んだ。








「・・・痛ぁ・・・」

壁にもたれると独り、呟く。

その途端の事だった。



「香・・・?」
「!?」






偶然だったのか、必然だったのか。
香の凭れた場所から少し離れた処のドアが開き、一人の男が現れる。


「りょ・・・!」

「お前、どうして此処に・・・」




ギイ、バタン・・・とドアの閉まる音。
扉一枚隔てた向こうには何があるのか、簡単に見当が付く。手元を見れば明確だ。

コルトパイソン。

触らずともきっとそれはまだ熱を保っているであろう事が解った。




「僚・・・アタシ・・・」
「香・・・」

僚の手から銃が自然に離れ、ゴ、と鈍い音がした。
アスファルトに無造作に捨てられたそれを見ながら、こんな事初めてだと思った。
僚は今まで自分の意志で愛銃を粗末に扱った事がない。

そんな僚をどうにも直視できず、彼の指先を見ながら香は狼狽えた。


「あ、あた・・・あたし・・・は」
「香」

指先が自分に伸びてくるのをじっと見つめた。



「あ」



僚の指は慈しむように、哀れむように香の髪を梳く。
そして

「何処まで知りたい。」


さっき、別の男が放った言葉と同じそれを呟いた。
違った事といえば、


先の男はこんなに困惑していなかった。

こんなに温度が高くはなかった。

こんなに強引に躰を求めては来なかった。





「全部よ。」

胸元のボタンを引き千切られながら香が喘ぐ様に言った。


「全部、教えてよ。」


胸元が露わになり、スカートがたくし上げられる。
酒が入った所為で抵抗するにも力が入らない。
都合のいい躰だと香は心の中で自嘲した。


「全部、教えてよ。」


もう一度言うと、自然に涙が流れ落ちた。








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