軽蔑するか、と僚が訊いた。
首を横に振り、ごめんと一言。
それ以上は涙の所為で何も言えそうにない。
僚が掴んだままの手首を引き、香を胸に抱いた。
「俺はお前に言い尽くせない程汚い事をしてきた男だ」
「違…」
「違わないさ。金を積まれりゃ人も殺せる、倫理道徳なんかクソ喰らえだ」
「それは」
「黙って聞いてりゃいい」
何か言おうとすれば抱き締める腕に力が込もり、僚の胸に強く押しつけられてしまう。
胸板に顔を押しつけられながら、頭上で「二度と言わないぜ」そう言って苦笑する息遣いが聞こえてきた。
「お前がこの世界で手を汚さずに生きていて欲しいと思うのは愛であると同時に俺のエゴだ。お前が幾ら望んでもそれだけは曲げる気にはならんよ」
「……」
「汚れない手、良心だとかモラル…俺に無いそういうモンは全部お前が持っていりゃそれでいいんだ」
「……」
「だが押しつけが過ぎたようだ。お前に辛い思いをさせてしまった。すまないと思ってる」
「……!」
違う。
大声で叫んでしまいたいがきつく抱かれた胸の中、それができない。
辛い思いをしているのは自分だけじゃない。
やり場の無い感情を募らせていたのは自分だけじゃない。
解ってはいたつもりだった。
調整し直された銃の重みで理解した筈。
それでもやはりその口から全てを聞きたかった。
ひた隠しにする、汚い部分を見せて欲しかった。
何年越しの成就だろう。
「ごめん、ごめんなさい、僚……!」
胸の中、くぐもった声。
「謝るな、悪いのは俺だ」
「僚が悪いんじゃな―――――」
「ひでぇ顔」
更に謝ろうとする香を胸元から開放し、顔を見合わせる。
泣き腫らして目と顔を赤く浮腫ませた香を見て僚は笑った。
香は泣いたまま笑い返す。
お互い抱き合ったまま見つめ合うのを恥ずかしいと思うのだが離れるのは名残惜しい。
相手を掴んだ指を放す事ができない。
香は、どんどん心の中に渦巻いていた不安が取り除かれていくのを感じた。
「僚」
確かめるようにその名を呼ぶ。
「アタシ、これから―――――」
TRRRRR……
言いかけた言葉は電話の音で遮られる。
「あ、アタシ出るわ」
ぱっ、と背中に回していた手を解く。
気恥ずかしさから必要以上に動作が大きくなってしまう。
電話が来てよかったわ、と香は照れ笑いを浮かべながらパタパタとスリッパの音を立てた。
自分はあまりにも臭い台詞を言ってしまうところだったと焦りながら。
「はい」
「……」
「もしもし?」
「―――――ァ?」
「?」
微かに、男の声が聞こえた。
「もしもし?何?」
今度ははっきりとした音声だ。
「リョサアーエバ?」
「?」
「リョサエーイバ?」
「何?もしかして僚の事?」
はっきりとは聴き取れないが、
『リョウ・サエバ』
それに似た発音をしている事は辛うじて解った。明らかにこの国の人間ではない。
戸惑う香を見て僚が異変に気付く。静かに電話横にあるデッキのスイッチを入れながら香に目で合図を送った。
逆探知機。
引き延ばせという事だ。
香が頷き
「僚……さ・え・ば・りょ・う、ね?貴方は冴羽僚と話したいのね?」
注意を払いながら相手に確認する。
『−−−−−』
突然早口で電話の主はまくし立てる。
香が耳にした事の無い言語だった。
「?」
『貸せ』
僚が静かに受話器を受け取ると耳へ当てながら窓の外に目をやった。
車の通りはない。向かいのビルや辺りをざっと見たが、特に変わったところは無いようだ。
「……だ」
誰だ、と問う前に乱暴に受話器を投げるように置いた音。
耳の奥に不快感が残る。
「僚…」
「どうやらヤツらもつきとめたらしいな」
でも僚ちゃんもつきとめちゃうもんね〜。
僚は戯けて笑うとモニターに目をやる。
「お、出た出た。千代田区……」
「霞ヶ…関……ねえ僚、此処って!」
「ちょっと出てくるわ。」
「大丈夫かしら、まさか――――」
「もっこり払うまで死なせるかよ。後頼む」
逆探知機の示した場所は自分達というよりは、むしろ冴子に近い場所を指していた。
ホルスターに差した銃を確認し、ジャケットを掴む。
ドアを開けようとした僚が一瞬何かを考え込み、振り向いた。
「もしかしたら罠かもしれん。分かってるとは思――――」
「大丈夫、自分の身は自分で守る。」
皆まで言わせず香が力強く頷いた。
ふ、と僚の表情が緩む。
笑いたいのだが困ったような、どことなく不安定な表情を見せている。
香は何故か居たたまれない気持ちになる。
「大丈夫よ!警報機は生きてるし何かあったらトラップも仕掛けられるもの…どうしても駄目な時は地下で待ってる。ほら、これもあるし!」
余計な心配をかけたくない。
香は自分のシャツを引っ張り胸元のボタンに発信器がついている事を強調した。
「…そうだな」
今度こそ僚が笑う。
「知らない人を家に入れたら駄目だぜ香ちゃん。」
「そこまで言わなくても判ってるわよっ!そんな事より早く行きなさい!」
「ははっ、留守番頼むぜパートナー。」
調子を取り戻した僚は香に背を向ける。
その背中を見た途端
「あ」
思わず無防備な声を発してしまう。
香は慌てて自分の口を抑えた。
僚が振り向く。
「何だ?」
「あ、ううん」
何でもないと首を横に振る。
「冴子さん、お願いね。」
当然、と言い残して僚が今度こそ部屋を出た。
――――どうしてだろう。
抱き合ったあの時に拭い去った筈の不安が、今更波のように押し寄せてくる。
香は胸に手を当てた。
−*−*−*−*−
さてどうしたものかと香は思案する。
本当ならば依頼確認、それから買い物にも行かなければならない。
気付けばいつの間にか二日酔いも治まっている。
アパートに篭もった自分が出来る事。
トラップを仕掛けておこうかとも考えたが、敵となる連中が此処を急襲するのかも分からない。むしろ今危険な状態にあるのは冴子の方なのだ。
逆探知は公安を示していた。
スパイが内部にいるのかもしれない。
「間に合って……」
香は小さく呟く。
じわじわと不安が形を変えて大きくなっていくような気がする。
(じっとしていちゃいけない。)
香は頬を二度叩くと、とりあえずは割れた皿を片付けようと箒を手に取った。
壁に立てかけていた箒を掴みながら何気なく窓の外に視線をやる。
「あら、かずえさん」
香は窓を開けた。
「おはようかずえさん!」
「あら香さん、もう昼過ぎよ。」
そういえば、と香は苦笑する。
「カズエ、野暮な事は言っちゃいけない。昨日のリョウとカオリは――――」
「う、わ、った、っ!か、かずえさんあのね、ミックったら昨日メグさんのお店で半裸―――――」
「ノー!何でもない何でもない!カズエ、映画の時間に遅れるぞ!」
「半裸?」
「は、反乱を収めたのさ、うん!」
怪しいわね、と訝しげに自分を見てくるかずえの肩を無理矢理抱いてミックが小走りにその場を去ろうとする。
つられてかずえも早歩きになる。
「あ、じゃあ香さんまた。」
「ええ、行ってらっしゃい」
夫婦漫才を笑顔で見送り、香は窓を閉めた。
大きな破片をビニール袋に入れ、それから細かい破片を箒で掃き取る。
ダストボックスに入れようとして、其処が一杯になっている事に気付いた。
ふぅ、と溜め息を吐くと香は仕分けしたそれらをまとめて裏口へと向かった。
生活水準は極めて低いにもかかわらず、ゴミの量はいつも並以上だ。
どうしてかしらと考えながら特大ペールを開ける。
燃えるゴミには僚のコレクションの一部である雑誌やポスター。
燃えないゴミには喧嘩の末に投げて壊した日用品。
「……はは」
一目で納得。
冷笑しながらやや乱暴に不燃物を放り込むと香は背伸びをした。
「さ、次は洗濯………」
独り言を言いかけて口を噤み、足を止める。
「…………」
「……………ゥ……」
誰か、呻いている。
耳を澄ます。
「ゥ……ゥウ…!」
苦しそうな女の呻き声が聞こえる。表からだ。
香はミックとかずえの去ったばかりの表通りへと急いだ。
「どうしたの!?」
丁度アパートの前に女が蹲っている。
苦しそうに背中を丸めているが黒いヴェールで顔を隠している為、その表情は窺えない。
「しっかりして!どうしたの!?」
「ン……」
「え?」
「アカチャン……オナカ、…」
「赤ちゃん!?」
やっとで女が顔を上げる。
中東系の顔立ちをしていた。
腹は纏っているゆったりとした黒布の上からも解るほどに膨らんでいる。臨月を迎えていたのだろう。
「…助ケテ……!」
脂汗をかき、苦しそうに肩で息をしている。
「しっかりして!」
「苦シイ…!」
「待って、今救急車を―――」
言いかけた香の前に女が握り拳を差し出す。
「呼バナイデ、ワタシナイショ日本キタ、ビザナイ……!」
「でも!」
「国モドル、イヤ!オネガイ…コノ住所、イカセテ…」
女は握り拳を開く。
はらりと落ちた紙切れを香は拾い上げた。
「これは…?」
「ココ行ケバ医者イル。ココ連レテクダサイ……ァゥウ…!」
女が懇願しながら呻き声を荒げた。
「………」
紙切れに記してある場所は新宿区内の住所だった。
きっと彼女の事情をよく知った闇医者がいるのだろう。行こうと思えば十数分の距離だ。
タクシーを拾おうかと思ったがこの通りには都合良くタクシーが通ったためしがない。
徐々に女の呻く声が激しくなっていく中
「…わかった、今車を出すから此処にいて頂戴!」
香は決断した。
−*−*−*−
「もうすぐつくから!」
「ゴメナサイ…」
後部座席でぐったりと体を横たえながら女が謝る。
「大丈夫、だからしっかり気を持って!」
「ゴメナサイ……」
指定された住所は香も余り足を踏み入れた事の無い場所だった。
人気の無い脇道に車を停め
「着いたわよ、どの建物―――――」
訊きながら振り向いた。
「ゴメナサイ……!」
女がもう一度詫びる。
「!?」
女は起き上がっていた。
グロックの銃口を香の後頭部に当て、泣きながらもう一度詫びる。
「ゴメナサイ、ゴメナサイ……!」
「どうして…」
「頼マレタ!騙シテ連レレ言ワレタ!」
「誰に?」
っぐ、と女が嗚咽を漏らす。
「同胞、デモ知ラナイ人!断タラ腹ノ子モ、ワタシモコロスイワレタ!断レナカタ!!」
「同胞――――――…!」
テロリストだ。
罠だと気付いた時には遅かった。
運転席のドアが開き、有無を言わさず其処から引きずり下ろされる。
「あっ!」
鈍い音が頭の中に響く。
(僚………ごめん………)
遠くで女の泣き叫ぶ声を聞きながら、香は意識を手放した。