「かずえさん、お願いがあるの」

ベッドから起きあがった香の第一声がそれだった。
香の口から出た願い出にかずえは戸惑い、直ぐに頷く事はできなかった。


















−*−*−*−*−




「香さん…ここ数日の記憶を失ってしまったみたい。」
「…そうか。」
「頭を強く打った所為よ。記憶が戻るかどうかまでは…」
「いいさ、仕方ない」
「あの時とはケースが別なんだけど、脳波に―――」
「任せるよ」

「あのね、冴羽さん……で、でも、もしかしたら何らかのきっかけで―――」
「かずえくん」
「え」
「任せるって言ったろう?なのに…やけに話したがるんだな、今日は」
「……!」
「本当は何か他に言いたい事があったりして」
「い、医者としての症状説明にすぎないわ!誤解しないで!」
「ふーん」

「……」
「大丈夫、気にしちゃいないよ」
「…気にしてあげて」



「もっと気にしてあげなさいよ。」







「何だリョウ、帰るのか?」
「ああ、後始末もあるしな」
面会をしないまま、僚は玄関口へと向かった。

「一晩だけ、香を預かっといてくれ」
「オーケー、任せろ。」

自分の流した情報の不正確さにミックは罪悪感を抱いていた。
冗談を言う事もなく僚を送りだそうとした、控えめなミックの様子に苦笑すると僚は言った。

「なあミック」
「ん?」
「かずえくんって意外と嘘が下手なのな」
「当然だ!俺はカズエの真っ直ぐな所に惚れたんだからな」
「バーカ、のろけるな」
「お前だってそうだろう?カオリが真っ直ぐな女だったからこそ惹かれた……違うのか?」
「………どうだか」
「リョウ」
「理由なんて解るかよ」

フ、と僚が緩く笑みを見せながらミックに背を向ける。
と、同時に奥廊下から荒い足音が近づいてくるのが解った。


「……ん?」



トトトト………




「……ォ!」


「この音は…?」



ドドドドド……




「お前はアタシを置いて一人帰る気かこのバカー!」
「んなあッ!?」





玄関の引き戸が僚と共に吹き飛ぶ。

「脳震盪如きでアタシを置いて帰るとは良い度胸してんじゃないの!えぇ!?」
「か…香しゃん……」
「どうせナンパ目的だろ!このもっこり大将!」
「ミ……ミック…助けろ…」

No、とミックが小さく呟き十字を切る。
こうして二人を乗せたミニクーパーはアパートに向かって何事も無く消えていった。





「私…冴羽さんに嘘を吐いたわ。」
「仕方なかったのさ、カオリが望んだ事だ。」
「冴羽さん、気付いてた。でも私…香さんの気持ちを思うと…!」
「カズエ、自分を責めちゃあいけない」

ミックはかずえの腰を引き寄せ、額に軽く口づけた。




「あとは二人の問題だ」







頭大丈夫か、と訊かれその言い方は何だと香が返す。
そのままいつものような軽口の応酬をしながらアパートに着くと一転、口を閉ざした僚は香を抱きかかえ寝室へと運んだ。
香はされるがままベッドに寝かされ、唇に幾つかのキスを受けた。

「先に寝てろ。ちょっと出てくる」
「……うん」

何処へ行くのか、僚は言わない。
香も敢えて訊こうとはしなかった。

冷たいベッドの上で、香は外の車のエンジン音を聴いた。
やがてそれが遠ざかると、香はゆっくりと体を起こし、寝室を抜け出した。



















−*−*−*−





コルトローマンを構え、的を睨みつけた。
モノトーンの無機質な的は、睨むうちに自然と人間の形に見えてくる。

目の前には褐色の肌をした、髭面の外国人。

「……!」

トリガーに指を掛けるがその次の動作に入る事ができない。
香の脳裏に焼き付いたままの男の最期が生々しく蘇る。



―――――目を逸らしてはいけない。



香がそう思えば思うほど、目の前の男の顔色は青ざめ、形状が醜く崩れていく。
やがて額に穴が空く。
穴という穴から赤黒い血を流しながら男が倒れようとする。

「ひ……っ」

男と目が合った。

男は笑う。
どくん、と心臓が異様な音を立てて跳ね上がった瞬間






―――――パン!






背後から聞こえてきた銃声に香は目を見開いた。
目の前の男がいつの間にか只の的へと形を変え、中心からやや外れた位置に一つ、穴が空いた。

自分の手元に目をやる。
手にしていた筈の銃はとっくに指から逃れ、コンクリートに転がっていた。
自分ではない。


「だ……れ」
「うん、まあまあって所かしら」

「麗香さん…」

「ちょっと腕は落ちたけどね」



ゆっくりと香が振り向くと、其処には隣に住む女探偵が銃を持った手を腰に当て、立っていた。

「やだ、何て顔してるのよ」
「……」
「射撃練習ってそんなに体を強ばらせてするものなの?」
「…麗香さん」

「なーんて、偉そうに言ってるけどアタシ、ただの使いですから。」

銃をしまうと麗香はペロリと舌を出し、笑った。


「つかい…?」
「姉さんよ。あのバカ姉貴、面倒な事は全て回してくるんだもの」

言葉の意味が解らない。
香は首を傾げる。

「香さん大丈夫かしら、って。」
「アタシ…?ああ、お陰様で怪我も―――」

「怪我じゃなく」

ぴしゃりと麗香が言い放つ。その語気の荒さには香だけでなく当人も驚いたようだ。
「ごめんなさい」と慌てて言い足した。

「気持ちの話をしているの。姉さんもそれなりに反省はしているみたいだけどね。」
「反省なんて…冴子さんは悪くないわ。だってアタシ達の所為で危険に―――」

「香さん」

再び麗香が香の言葉を遮った。
こめかみがヒクヒクと小さく痙攣している。





「ああもう、イライラするわ」
「麗香さん」
「人の所為にしちゃえばいいのよ、たまには!」

麗香はヒステリックに叫んだ。

「あのね、ヤな事は放り投げて知らん顔してればいいの。大体迷惑事を持ち込んだのは姉さんでしょ?姉さんの持ってきた大問題の所為で二人の間に何かがあった筈でしょ!?」
「……そ、んな」
「あの厚顔無恥な姉さんでさえ連絡できない程なのに何もなかったなんて言わせないわよ!」
「……」
「自分が迷惑被ったならただ怒って相手を責めりゃいいじゃない!?なのにどうしてあなた達ったら自分が泥を被るような真似ばっかり…ホント似たもの同士ね!」

呆れちゃう。
麗香はそう言って香から目を背けると腕組みをした。
感情を抑える時の彼女の癖だ。

それまで麗香の剣幕に圧倒されていた香は、一息吐くと、やっと笑った。


「ありがとう」

「…もう」



礼を言われてしまい、麗香は気まずそうに顔を歪めた。

麗香の言葉には忌憚が無い。
美樹の様に友人を気遣うようなフォローも無ければ冴子のように本音と建て前の使い分けをする事もない。女特有の感情の波を隠す事なく、ただひたすら本音のみをぶつけてくる。
それが今の香にとっては逆に救いのように感じ、嬉しく思えた。


笑顔のまま、香は彼女に問いかけた。


「ねえ、麗香さん」
「なあに?」
「麗香さんは…人を撃った事、ある?」
「ちょっと…っ」

笑顔で問う質問事ではない。今度は麗香が強ばる番だった。
香の問いかけにどう返答をしたら良いのかが解らない。



「今……人を撃つイメージを浮かべていたの」
「香さん…」
「引き金が引けなかったわ。どこにどんな風に撃てばどのくらい血が流れるのか解らない。肉に銃弾が埋まっていく感覚なんか解らない。何人撃てばどんな気持ちになるのか、自分の銃弾で人が死んだ時に何をどう感じるのかも解らない。」
「当然よ、だって私達――――」
「でも解ろうとしたの。解りたかったの。何も知らないフリをして帰りを待つだけのパートナーにはなりたくなかった。焦ってたの。」
「香さん……」
「受け止めたかったの。どんな僚だって受け止める自信はあったし今でもそれは変わらない。全てを理解しあうのが本当のパートナーだと思ってる。でも」


「受け止めるだけじゃダメなのに」
「……」


「なろうったって僚になれるワケじゃなし、分かんないモンはいくら考えたって分かんないのにね。バカだわアタシも」
はは、と少年のような笑い声を上げると香は言った。
「僚が言ったの。『自分に無いモノは全部お前が持っていればそれでいい』って。だから」


「私のすべき事は、ひとつなの。」


「聞いてくれてありがとう、麗香さん。考えてた事を口にしたらスッキリしちゃった」
「……な〜んだ、もう答えが出てたってワケね。」
言葉通り、すっきりとした表情で笑いかけてくる香。麗香はそれを睨め付けると背を向けた。

「かーえろっと。お邪魔様」
「麗香さん、あの」
「ホントは二人がピンチって聞いたから丁度良いと思ったの。僚を貰いに来ただけよ」

未だ塞がれない地下の通り穴を平然とくぐりながら麗香は言った。

「あなた達の事、別に心配でも何でも無かったんだからね」

嘘までもが真っ直ぐな麗香の言葉に香は笑った。

「ありがとう、麗香さん」

来て損したわ、と穴の向こうからぼやき声が聞こえてくる。

「何で玄関を使わないのかしら」

香は負けずにぼやき返した。

事務所に帰った麗香の真っ先にした事は、冴子への電話連絡だった。























−*−*−



香は一発の弾も使う事無く射撃場を出た。
キッチンへ足を運ぶと冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。
一口それを含むと同時に外から聞き慣れたエンジン音が聞こえてくる。



「………」


ごくりと喉が鳴る。
階段を昇る音に、香は大きく息を吸った。




「ただいまー」
「おかえり、僚」

不自然ではなかっただろうか。
動揺を隠しながら香は冷蔵庫を閉めた。


「あー、腹へった」
「こんな夜中に!?しかも病人に料理させる気?」
「『たかが脳震盪』って言ったのどこの誰だったかな〜」
「うっ…」
「僚ちゃん麺類が食べたいの」
「…手を洗ってらっしゃい」
「俺ぁガキか」
「あんまり変わらないわよ」
「へいへい」


ああ、数日前もこんな会話をした筈だ。
香はハッとし、それから小さく笑った。

これでいいのだ、と。





僚は大人しく洗面所へと向かった。
手洗いなど、香のようにキッチンで済ます事はできたのだが敢えてそれはしなかった。

ハンドソープのボトルに手を伸ばすが指は躊躇う。
僚はそれを手に取らず、ただ水道の蛇口を捻った。


「……」





染みついた汚れが一朝一夕で真っ白になる筈もない。
どうせ拭えない汚れなら洗う必要が何処にある。


「面倒臭ぇの」


誰が見ている訳でもないが形だけ洗う恰好をすると、僚はジャケットで手を拭いた。




この仕事がどんな意味を持つのか、香は嫌というほど知ってきた筈だ。
なのに彼女は何も知らない風をする。
成る程、頭の良い選択だったと僚は今更ながら思う。

そんな香に全てを吐き出してやりたいと思っていたのがまるで嘘のようだ。



不殺の精神で勧善懲悪の慈善事業。
上等だ、と僚は呟いた。





























繰り返される。

























「たっだいま〜」
「おかえり、僚……うわっ、お酒臭い!」
「僚ちゃんいっぱ〜い飲んだもんね〜」
「またツケで朝帰り!?いい加減にしろっ!」

僚が道化る。
香がそれに倣う。

お互い気付いていても気付かないふりの毎日。




だが言葉にならない何かは今も時々、二人を苦しめる。

感情を抑える術を知らない香はそれが顕著に表れる。
そんな時、僚は決まって乱暴に香を抱いた。




「痛いか」

ベッドの中で僚が訊く。

「……痛くない…っ」

泣きながら香が嘘を吐く。
弾けた涙に呼応するように、僚はますます乱暴に香を引き寄せた。






















膜のような、紙のような。

壊そうと思えば壊せる、薄い一枚をそのままに。

二人は今日もお互いの大事な処を護りながら息をしている。


















fin


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