「Брагин Вячеслав?」










雑踏の中。
ハンチング帽を深く被り、黒いコートを着た初老の男の背後にひたとくっついた。







「その声は…ミック・エンジェル。」

右の義眼が僅かに動いた。

「久し振りだな。」
立ち止まった男の背に当てたトカレフで、歩けとばかりに前へと押した。
男は人の流れに任せ、歩き始める。




「大きくなったモノだ。」

老いる筈だ。

そう言って男は笑った。



「もう老いる心配もない、よかったな。」
「殺しに来たか。」
「それ以外に何があるってんだ?」
「引退した人間のする事じゃあない。」
「唯一、やり残した仕事だ。片づけさせてくれ。」



周りに気取られぬ様、微笑みながらミックは囁いた。




「現役中に捜すことが出来なかった未熟者に、俺が殺せるか。」
「………言いたい事は、それだけか。」














『「あの時」親と一緒に殺してやればよかったか?』













それはミックを刺衝するには充分な言葉だった。
背に当てられていた銃が、丁度心臓の位置にすい、と移動する。




「……殺せるか。」
「間違いなく、な。」









「お前の持っているそれが――空砲でも、か?」

「――――!」















干割れているが、はっきりと叫喚が響いた。
とにかくロシア語で男が何かを高く叫び、初老の動作とは思えない程に瞬間で間合いを取った。

ミックはというと、空砲と知らされたトカレフをゆっくり降ろし、大分遅れて男に目をやった。

スチェッキンが自分に向けられている事を、他人事の様にただ立ち尽し確認した。







――何をしているんだ、俺は。







そのすぐ一瞬。
男のハンチング帽が一瞬浮き上がり、こめかみに穴が開く。
その勢いで男の手がミックではない方を向き、空を撃った。


周りが気付き叫び出す。

血が流れ出す。







まるでスローモーションのようなそれらを見届けると、ミックは右足を一歩、後ろへと。
そこから踵を返す。



向かう処は決まっていた。



















「どういう事だ…!」



そのビルを下りようとしていた狙撃者を螺旋階段の中央で止め、胸倉を掴んだ。



「答えろ、リョウ。何故俺に銃を渡した。」
「……」
「こんな事になるのなら、何故!」
「……」
「何故だと聞いているんだ……」





「解るだろう。」





自分の胸倉を掴んで両手が塞がったままのミックの懐からトカレフを抜き取り、僚は言った。








「お前にはもう、この仕事は出来んよ。」
「リョ……!」





胸倉を掴むその手に渾身の力を込める。
少なくとも本人はそうしたつもりだった。

それでもミックの細腕は、少し振り払うだけで簡単に服から離れた。
感電で焼け爛れた手では限界が知れている。
僚はそれを見るなり顔を顰めた。






「早く帰れ。」






そう言い残すとライフルケースを肩に戻し、ゆっくり階段を下りていく。

ミックは言葉を失った。






























−*−*−*−*−








―――念願叶って仇は消えた。
それで変わるかと思った世界がさほど変わっていない事に男はやっとで気付いた。

それでも彼は自分に言い聞かせた。『もう終わりなのだ』と。

彼から零れ落ちる物はもう、何一つない。




『お前にはもう、この仕事は出来んよ。』




僚からの実質的最後通告もそのまま受け止める事が出来た。
その恋人がそれに気付かない筈もなく。












その夜、ミックはかずえを抱いた。
非道く荒々しいセックスだった。
その体温でかずえは彼が以前言った『やらなければいけない事』が終わった事を知った。

不器用な恋人に、かずえは何度も何度もキスをした。
あの日自分が受けたような降り注ぐキスを、顔に・頭に・指に。










「カズエ……」
「なあに?」
「俺は――」




言わなくてもいい過去の傷。
今ならば、聞いても良い様な気がして、かずえは微笑んで問い返した。



「どうしたの?」






微笑んだ筈が、零れ落ちる涙。
ミックはそれを見て、


「sorry.」


あの夜と同じ言葉で優しく抱き締めた。

彼女の柔肌に滴ったモノはミックが見せる、最初で最期の形だった。





       fin

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