「香さん…ちょっと太った?」
「っ!?」

飲みかけの水を吹きそうになり、香は激しく咳き込んだ。

「あ…あたし!?」
「何だか…ふっくらしたような気がするんだけど」
「そうかしら」
自覚症状はない。
経済状況は思わしくない所為で贅沢な食事もしていなければ暴飲暴食をした覚えもない。

「あぁ、そうだわ!」
美樹は突然納得して頷いた。
「ココねきっと」
「み、美樹さんっ!」
美樹は躊躇う事なく香の胸元に手をやった。
「またサイズアップしたんじゃない、香さん?」
「みみみ、美樹さんったら!」
海坊主がいれば真っ赤になって止めたのだろう。だが此処は美樹と香の二人きりの空間。
女同士だしいいじゃない、と美樹が手のひらで香の胸のサイズを確認する。
「う〜ん、負けちゃいそう!」
「ハハ…美樹さんには勝てないわ…」
香は為す術もなくされるがままで苦笑した。






「さて、香さんが愛されている事も確認できた事だし、コーヒーでもいれますか」
「美樹さんったら………あ、」
「どうしたの香さん」
「今日はお水だけでいいわ」
「あら、ツケの事なら気にしなくても―――」
「ううん、違うの。ちょっと最近おなかの調子が良くないみたいで」
たはは、と香が照れ笑いする。美樹が「お大事に」と言ったところで客が入ってきた。
「香さんの待ち人かしら」
「ええ」


入ってきた客は水色のコートを身に纏っていた。
ギラギラと必要以上に作り込まれたアイメイクと盛り上げられたヘアスタイルから、これから出勤であろう事が自然と解る。
電話で示し合わせたその格好を認めると香は立ち上がった。
「ヨウコさんですね」









奥の席へ依頼人を通す。
美樹がすぐにオーダーを取りにいくが、ヨウコという依頼人は「すぐ終わるから何もいらない」と手を振った。

「?」

すぐ終わるとはどういう事だろう。
香は訝しげにヨウコを見た。

「あの、どういった依頼内容で―――」
「依頼じゃないんだけど」
「はい?」
「あたしが依頼されたっていうか」
「?」
「新規のお客さんだったんだけど、昨日の同伴で結構な額貰っちゃって」
「……?」
「で、こうすれば香っていう子に会えるからこれ渡して、って」

大きくブランドロゴが記されているバッグから一通の封筒を取り出すと、ヨウコはそれを静かに置いた。

「確かに渡したから」
「待ってヨウコさん、これは……」
「渡すだけって言われてんの、お金貰ってるからこれ以上言えない。ごめんね」

ヨウコはそれだけ言い残すと、そそくさと店を出て行った。

「…何だったの?」
「さあ…」

香は封筒を手に取り、照明に透かしてみる。美樹もそれを覗き込んだ。
何の変哲も無い水色の封筒。
念のため手触りを確認してからそれを開けた。

中には小さなカードが一枚。






『おめでとう』





急いで書いたような汚い5文字だけがそこにあった。

「……」
「なあにそれ?香さんへのメッセージ?」
「…さっぱり」
「何だか気持ち悪いわね。ちゃんと冴羽さんに報告しなくちゃダメよ」
「ええ、解ってるわ」
















−*−*−*−*−*−*−









玄関のドアが開く音。
不思議な依頼の話をしようと思ったが、早速の一言で香の気は一気に削がれた。

「メシまだか」
「『ただいま』くらい言えないの?」
「ただいま、メシは?」
「…今炊きあがるところよ」
「早めにな」
「…ったく」

帰ってくるなりそれかい、と香はブツブツ言いながらも味噌汁を温め始める。

「………」

香は冷蔵庫を開けようとした手を止めた。

「どうした?」
「………ううん」






おかしい。



数日間、ずっと腹の調子が良くないと思っていたが今更になって胃が激しく騒ぎ出す。
酸が込み上げるのを必死で抑える。
香は耐えきれず冷蔵庫を閉めた。

「お」

隣で僚が炊飯器を開け、つまみ食いを始める。

「あ、りょ――――…」
「あん?」

白飯を頬張りながら僚が振り返る。
同時に煙草の匂いと炊きたての香りがまざりあう。
胃腸が急激に収縮を始めた。


「う………っ」
「おい、香……」

香は慌てて口元を抑えるとシンクへ走り、込み上げたものを全て吐き出した。


「っか……は…っ!」
「おい、おま――――」
「具合…悪くて……ゴメン」
「いや、それよりお前」







「―――――――…!」








僚と目が合ったその時、香の中で何かが繋がった。













『私たちもいつかはこの世界を引退するでしょう?そうしたらどんな家族を作ろうかなあ…って』


あの日だ。
あの日の夜だ。

証拠は無いが香の勘はそれを確信した。






『香さん…ちょっと太った?』

美樹のさりげない気づきも


『おめでとう』

あの誰からとも解らないメッセージでさえ合点がいった。


何故か香の中で気持ちの良い様に全てが繋がる。
そして我に返る。


「…………ぁ……」
「香」



僚は目を逸らさない。
崩れ落ちた香にゆっくりと手をさしのべてくる。だが

「……ぁ…あた、し」

香はその手から逃れるように後ずさった。

「ごめん…一人にさせて……」
「香」
「具合…悪いから…」
「あ…ああ」

香が立ち上がると、僚はそれ以上香を追う事をしなかった。


「ご飯…ごめん……」
「いや、ゆっくり休め」



部屋を出る一瞬、香は僚を覗き見た。

視線は合わない。
僚は俯いていた。
それは今まで見たことも無い、子供の様に無防備な顔だった。
半開きの唇で一点だけを見つめている。
その先は床でしかない。
縋るように床の染みを凝視している僚に「おやすみ」の一言さえもかけられず、香は逃げるようにキッチンを出て行った。












自室に戻ると何故か鍵を掛けた。





「………どうしよう」

香はベッドに横たわり、ゆっくりと腹部をさする。
まだ何の変化も見られないそこは呼吸に合わせて小さく上下するだけだ。
手を差し伸べた僚は、あの時何というつもりだったのだろう。




「いいのかしら…?」


香は小さく呟いた。




「………ううん、違う」

喉に込み上げてくるものは、今度は涙と嗚咽だった。






「………ダメよ」






香は胎児のように体を小さく丸めると目を閉じた。



















−*−*−*−*−*−*−











「あら冴羽さん、どうしたの?」

フラフラと店に入ってきた僚を見ると、美樹は驚きの声を上げた。

「どうした?」
海坊主もいつもと全く違った気配に思わず顔を上げた。

「……いや」

いつものカウンター席に座ると僚は力なく笑った。

「コーヒー頼むよ美樹ちゃん」
「それは構わないんだけど……変よ冴羽さん」
「……ハハ」

返しにも全く力が無い。美樹と海坊主は顔を見合わせた。


「わかった、香さんと喧嘩したんでしょう」
「ケンカね…そりゃいいや」
「……冴羽さん、本当に大丈夫?」


水を差し出しながら美樹は思い出した。

「そういえば、あのメッセージは一体何だったの?」
「メッセージ?」
「あら、香さんから聞いてないの?」
「香?何の事だかさっぱり」
「昼間の依頼人からメッセージを預かったのよ香さん」
「…それで何だって?」
「『おめでとう』って。一言だけ」
「………」

「香さん宛におめでとうって言ったらあなた達が結婚する位しか思いつかないじゃない。そうでなければオメデタとか?」
「―――――――………」


「冴羽さん?」
「………」



『オメデタ』
そう言われた途端、鳩が豆鉄砲を喰らったような表情で僚が顔を上げた。




「冴羽さん、まさか……」
「………かおり…が?」
「それはこっちの台詞!まさか本当にあれ…」

美樹は徐々に頬を上気させる。
それからまくしたてるように最近ふくよかになったのではと思っていた事、体調が悪いと言っていた事を僚に話して聞かせた。


「こんな事している場合じゃないわ、香さんに連絡!」

美樹は携帯電話片手に奥へと引っ込んでしまった。
ホールには海坊主と、呆然とカウンターを見つめる僚の二人きりになった。







「おい、いつまで情けないツラをしているつもりだ」
「……海坊主」
「いい加減腹をくくれ」
「いや、そっちじゃなく…さ」
「?」

僚の意図する処が読めない。
今まで見たこともないような情けない顔をしているからかもしれない。
海坊主が首を傾げると僚は静かに笑った。

「海坊主。お前さ」













「神って信じるか?」










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