「今日は静かね」

雑誌を纏め終えたかずえは窓を開けると向かいのビルに目を向けた。


「そりゃあリョウだって大人しい日もあるさ」
「だって今日、古紙の日よ?貴方だってほら」
「……………」

目の前の雑誌の山は金髪美女のヘアヌード。
仕事に必要だからと買ったあれこれの専門書に紛れていたそれを見つけるのはかずえにとって容易な事だった。

「カズエ、きみ探偵が向いているかもよ?」
「…………」
「あは……あはは…」

乾いた笑いを浮かべながら逃れ先を探す。


ふと向かいのアパートに人影を見つける。




「か、カズエほら!噂をすれば」
「あら冴羽さん」

こちらの視線を感じていた筈だが、僚は何も言わずにそこを通り過ぎていった。



「………何だあ?あいつ自分でお宝捨てに行きやがった!」
「お宝、ねえ…」
「う、うおーっつほん!」











「………ん?」
「な、」

何、と訊こうとしたかずえの肩をトトン、と指で制し、自身もカーテンの陰に身を隠す。

若い男が辺りを見回しながらアパートへ入っていく。


「…ふーん、カオリのファンってとこかな?」
このパターンはそう珍しい事ではなかった。
香に惚れた男が僚の不在を狙ってアパートを訪れる事は頻回で、そのたびに大きなハンマーの音がアパートまで響いてくる。
ミックは男が中に消えていったところで顔を出した。

「あいつきっと妬くぜ―――――…」










いつもの事だと思っていたそれが違う事に気づく。
香の気配が異様だ。
ミックが叫んだ。






「戻れリョウッッッッッ!」

「ミック!?」
「カズエはここに!俺がすぐに戻らない時はファルコンに連絡を頼む!」
















−*−*−*−*−*−*−












「よかったね」
「……!?」
「あれ?どうして驚いているんだい?」
「……」

「妊娠したんだろう?僕と君の愛の結晶じゃないか」
「―――――――何言って…」
「ほら、思い出そうよあの日の夜を」

「抱いてやっただろう、君を」

「素晴らしい体だったよ」

「まだ思い出せないのかな」


香の答えを待つでもなく男は独り言を楽しむように首を傾げる。
それから何もできずにいる香の顎をゆっくりと持ち上げた。









「『おめでとう』」









男が言った。
瞬間、香の体がビクリと跳ね、それからガクガクと震え出す。









「―――――あ…ああ……」


「やっと思い出した?気持ち良かっただろう?絡みつくようだったもの、君」
「ああぁ…!」









「カオリ!」
「!」


男は舌打ちをすると香を突き飛ばし、室内へと駆け込む。
窓を破り男は逃げていったが、膝をついた香に何があったのかを確認する事をミックは選んだ。







「カオリ!怪我は!?」
「………そ…」
「大丈夫かいカオリ……」
「嘘…………」
「?」



虚ろな目をして「嘘」と呟くばかりで香はミックの存在さえも目に入っていないようだった。

暫く抜け殻の体をしていた香に目の色が戻ったのは僚の声を聞いた直後だった。













「香っ!」
「!!」


「ミック、何があった!?」
「遅いぞリョウ、カオリが―――――」
「や」
「?」
「いや」
「かお……」




「触らないで、来ないで!嫌!」




香を支えるミックの姿はまるで耳に入っていないが、僚が何かを言い、手を伸ばす度に香は目を見開いて咆哮した。
暫くそれを繰り返した後、それまで躊躇っていた僚がやっとその腕を掴む。


「落ち着け香」
「あ」
















「ああああああああぁぁぁぁぁああああああ!」



























−*−*−*−*−*−*−*−*−















「!」
「香さん


」目を覚ますと目の前には美樹がいた事で香は心底ホッとした。

「よかった、心配したのよ。今冴羽さん呼―――」
「やめて!いや!」

急激に呼吸が乱れ、汗が噴き出してくる。


「香さん?」
「呼ばないで!だ、あ、あああああ」
「落ち着いて!落ち着いて!!」
「だ、呼、お―――――」

「ごめんなさい香さん!」

会話どころか呼吸さえもままならない香を見ると美樹は香の目を塞ぎ、ゆっくりカウントを取りながらベッドに体を倒す。
なすがままに香は崩れ落ちた。









































日が暮れようとしていた頃、やっと美樹が香の部屋から顔を出し、無言で僚を別室に呼んだ。




「冴羽さん」
「………」
「幾つか確認したい事があるわ」
「……ああ」




「香さんの下着の枚数って覚えてる?」

ずるっ、と僚が崩れる。



「ん、んな…美樹ちゃん?」
「大事な話なの、真面目に!」
「……15枚」
「最近増減した事は?」
「ぬあい!」

俺のランジェリーデータバンクは完璧だと僚が豪語する。
美樹は苦笑しながらもその正確性を認めた。


「…だったら尚更おかしいわね」
「何が」
「…………」




黙り込んだ美樹を見ると海坊主が無言でミックの腕を掴み立ち上がる。

「んな、何だよお前」
「いいから来い」
「だがミキの話が……」


有無を言わさずミックを引きずった海坊主は部屋を出て行った。














「冴羽さん、とても酷い話をさせてもらうわ」
「………頼む」
「逆行催眠で彼女が口走った事をありのまま話すわ。でもこれはあくまでも彼女の思い込みだと仮定して頂戴」
「……ああ」


「3ヶ月位前、横浜の廃ビルで捕らわれた事は?」
「あった」
「彼女が言うには…その時乱暴されている」
「………」

無表情を装う僚の指が一瞬震えた。
どれとも察しのつかない感情が美樹には伝わってきたが今はそれをいたわっている場合ではない。
なるべく感情を込めないように美樹は続けた。


「それから彼女はその所為で妊娠したと思っている」
「――――――!」
「待って冴羽さん!」


僚が殺気を込めて立ち上がり、ドアの向こうで何事かと二人が身構える気配がした。
瞬時に美樹はそれらを一喝する。


「落ち着きなさい!あくまでも仮定よ!」






「おかしいところだらけなのよ…この証言」

「彼女、顔を殴られて鼻血が止まらなくて苦しかったって……下着を引き裂かれたって言った。でもさっき冴羽さんは下着は無くなったりしてないって言ったでしょ?それに顔を怪我した事は?」
「……無い」
「でしょうね。そんな変化を冴羽さんが気づかない筈ないもの」


「……あの日……」

僚がぽつりと呟く。


「冴羽さん無理しないで。言いづらい事だったら――――」


「あの日…………香は水色パンティーちゃんを履いていた。」

がたん、と美樹が椅子から転げ落ちた。

「そして今…水色パンティーちゃんは引き出しの奥から3番目に収納されている。間違いない!」
「……き、気持ちが落ち着いたと思っていいのかしら…ね?」















「妊娠の兆候も襲われたという嘘も……これは全て彼女が思い込まされているだけなのよ」
「暗示か?」
「ええ、厳重にロックがかかっていて私には解除できない程のね」

少し考えていた美樹はハッと顔を上げた。

「そうだわ、昼間のメッセージ!」
「美樹ちゃんが昨日言っていたアレか?」
「ええ、何か関係があるかもしれないわ。香さんからその話は?」
「ああ。相手の名前はヨウコだったな」
「そう。水色のコートを着て見た目はあからさまに水商売風だった。同伴した客から頼まれたって言ってたわ」
「調べてみる」

「とりあえず今日は私、泊まらせてもらうわね」
「ああ………すまないな美樹ちゃん」
「何て顔してるのよ」

しっかりしてね、と美樹は苦笑したがすぐに表情を強張らせると頭を下げた。


「ごめんなさい冴羽さん。私の早とちりで貴方に糠喜びさせ――――」
「いや、そんなこたないよ。ただ―――――……」
「ただ?」

同時にドアが開き、海坊主とミックが入ってくる。
美樹はそれに気を取られ、僚の言葉の続きを聴く事ができなかった。















「リョウ、今情報屋から電話――――」
「その前にミック、一応確認があるんだけど」
「何だい?ミキ」
「香さんの下着で奥から3番目にしまってある―――」

美樹が言い終えぬうちからミックが胸を張る。


「俺の最新情報によるとそのポジションに収まるのはサテンの水色だね。なかなか品の良いパンティーだ。だが俺のお気に入りは一番奥にしまってある、カオリがなかなか履こうとしない総レースの赤―――――」


海坊主の渾身の頭突きでミックが床に沈んだ。
僚が呆れた顔で呟いた。

「相変わらず悪趣味だな…お前」
「……うん、やっぱり冴羽さんの記憶は正しいみたいね…」

それにしても貴方達って日頃何しているの。
美樹はそう突っ込みを入れたかったが、普段通りを装う僚の横顔が痛々しくそれをやめた。





















ミックの持ってきた情報は、よう子という女が歌舞伎町で殺されたという話だった。
水色のコートにブランドのバッグ。
容姿も美樹の記憶していたそれと一致した。




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