その男は心理学を専攻する大学院生だった。
見た目と人当たりが良く、男を悪く言うものは少なくとも同じ学科内には一人もいなかった。特定の恋人は無く、本人も恋人は作らない主義だと吹聴していたが、それでも好きだと言い寄る女の誘いは断らなかった。体だけの関係でも女たちは満足していたし、それをやっかむ同級生もいなかった。小さいころから野球をやっていたが肩を壊してしまった。スポーツメンタリストになりたいから心理学に興味を持ったのだと言う彼の言葉を誰もが鵜呑みにし、ゼミの飲み会で披露する催眠術ショーは毎回盛り上がり、誰もが『自分にもかけてくれ』とこぞって手を挙げた。
学費の出処はパトロンで、美容系の店を幾つも持つ女社長だった。金銭の繋がりだけではなく肉体的なそれもあったが男は躊躇わずにパトロンを抱いたし、求められれば恥部の隅々までもを曝け出した。
こんな事、父親に金を貰うより随分容易いと男は思う。
父親は自分をアメリカ人だと言ったが、日頃から虚言の多い人間だったので男は信じていなかった。自分に混じっている血はそれなのだとは到底思えなかったからだ。
母親は記憶の中では生粋の日本人顔だった。
いつも互いを罵倒し合い、時には一方的に母親が暴力を受け続ける夫婦関係しか目にしたことはなかったが、母親は男の事だけは『かわいい子』と大切にしてくれた様な気がする。
記憶がぼやけているのは男の歳が十もいかない頃に母が亡くなっているからだ。死因は覚えていない。だが父親はいつも『あいつは殺されたんだ』と口癖のように言っては男を蹴飛ばした。
『見せしめなんだよアレを殺したのは!クソったれ!』
誰がお母さんを、と訊くと父親は途端に口ごもるか無言で幼い体を散々痛めつけたのでいつしか男はそれを訊こうとはしなくなった。
聞きたくても聞けなかったそれを耳にしたのは、父親の死を告げられた日だった。
『知らなかったの?アンタの父親、ろくでもない組織の下っ端だったのよ』
ブラジル出身だと言っていた女―――――父親の恋人は、あっちでは有名だったのだとその組織を教えてくれた。
『ユニオンテオーペってね、ヤク売ったり買ったりした事あるヤツならみんな知ってる南米の有名どころよ。そこのてっぺんがね、来日した挙句船の上でドンパチしたのよ』
『相手はシティーハンターだったって』
海底に沈んだ船から引き揚げた父親の身体は、警察からも女からも見てはいけないと止められた。
溺死で腐敗も進んでいる。銃撃戦の中で意識を失い、気づいた時には船中に浸水が始まっていたのだろうと説明を受けながら背中の沸沸とした粟立ちを必死に抑える。
やっと。
やっと死んでくれたのだ。
自分と母親が真っ当な人間らしい生活を送る事ができなかったのはこの男の所為なのだ。
パトロンを見つけてからは一緒に暮らす事もなく時々顔を合わせるだけの関係だったがそれでも日々殺してやりたい、死んでくれと願い続けてきた。
やっとで願いが叶ったのだ。しかもこんなに酷い死に方で。
本当にやめた方が…と静止しようとした警官の手をうるせえよ、と振り切り顔に体に掛かっていた全てを取っ払う。
『は、ざまぁねえな!俺や母さんを散々いたぶってくれた結果がこれか!汚ねぇし臭ぇしよ!』
この肉の色と形でよく身元確認ができたものだとただ思う。込み上げる吐き気を抑えながら男は笑った。
瞬間、女が金切り声で何かを叫んだ。
ポルトガル語なのだと解ったが聞きかじった事しかないそれを理解できないまま男は頬を張り飛ばされた。
『あんたは結局何も知らない!』
-*-*-*-*-
香にメモを手渡した後に殺されたよう子は、腹を縦に切り開かれた惨死体で発見された。
横に切ろうとして切りにくかったのか思い直したか、初手のもたつきの所為で肉が醜く抉れていた。
よう子の動向は防犯カメラに所々が残っていて冴子がそれらを追っていくとcat’s eyeに辿り着いた。
「で、彼女と最後に会ったのが香さん、と」
「ええ、でも水さえも飲まないですぐ席を立って行ったわ。急いでるからって」
眠っている香に代わって美樹が答えた。
「ねえ、彼女同伴した男に頼まれたものを渡したかっただけって言ってた。その男を追えばいいんじゃない?」
「もう聴取済みよ。その男も頼まれただけの捨て駒だった」
「当然だけど用意周到ね」
「かと思えば直接アパートに乗り込んできたりして大胆というか無謀というか…情緒と思考が安定していないのかしら」
「でもお陰でミックが顔を確認できたからもうすぐ殺せる」
「殺……物騒ねぇ」
「あら、逮捕なんかしちゃダメよ冴子さん?万が一冴羽さんがやらなかったら私がやるんだから」
「………」
「こういう事する人、大嫌いなの。許せない」
当たり前の事のように言い放った美樹は懐からキングコブラを取り出す。
無機質な声は逆に怒りを感じさせ、堪え兼ねた海坊主が
「美樹」
名前を呼ぶと銃を握る手に触れた。
「――――だって!」
「お前がそこまで責任を感じる必要はない。後は僚に任せておけ」
「そういえば、僚は?」
「ミックと出ている」
ぎこちなく、それでも美樹を胸に抱きよせ赤くなりながら海坊主が答える。
「こんな時、一番香さんの側にいたいでしょうに…」
冴子の切なげな声に、美樹が顔を上げる。
「そうだわ…そろそろ香さんが起きる頃だから私、様子を見てくる」
香の部屋に戻ろうとした美樹がドアノブに手を掛けようとした時、かずえが部屋に駆け込んで来た。
「冴羽さんは!?」
「ミックと出たままだ」
また海坊主が答えると興奮した様子のかずえが叫ぶ。
「すぐ…すぐに連絡して!教授が香さんの様子を訊いたら大丈夫だからって…連れて来てって!」
すぐさま海坊主が僚の携帯電話を呼び出す。
「香の事は教授に任せて大丈夫だそうだ……ああ、わかった」
「冴羽さん、何て?」
「『それじゃあこっちは心置きなくやらせてもらう』だと」
「よかった、私の出番は無さそう」
美樹は服の上からキングコブラをひと撫ですると口元だけを笑わせた。
「…生きたまま逮捕できないって事ね?」
冴子は溜息を吐くと自身も携帯電話を取り出した。
「検問、解除していいわ。無意味だったみたい」