「さ、帰るか」
肩を抱かれると、また視界が滲む。
促されるまま車に乗り込むと、シートベルトに気を取られたふりをしながら香は言った。
「僚」
「何だ」
「部屋に着くまでさ…泣いてもいいかな」
「ああ」
「あとは大丈夫だからさ、ごめん」
いつまで経ってもエンジンの掛からない車内。窓の外に目をやろうとして
「―――――っぷ」
頭からジャケットを被せられ、視界が塞がれる。
「定番だろ、顔見られたくない時のさ」
「…くさい」
「お前なぁ」
僚の持つ全ての匂いが染み込んでいるそれを涙目のまま思い切り吸い込む。
気持ちを誤魔化すように悪態を吐いてみたものの、自分はこの匂いが一番好きなのだと香は思う。
直後
「…気持ち悪…い」
吐き気が込み上げて香はジャケットを乱暴に払いのけた。
「おま、ひどくないかそれ!?」
「吐きそ…ぅええっ!」
「か、香いっ!?」
-*-*-*-*-
結局車を出す事もできず教授宅に舞い戻ると香は散々嘔吐を続け、ぐったりと倒れ込んでしまった。
お前さん、この短時間で香くんに何をしたんじゃと教授に訊かれ、ジャケットをかけてやっただけなのだが、と僚はただ苦笑するしかなかった。
待ち時間に散々自分の体臭の有無を確認したりジャケットをバサバサとほろってみた挙句、とどめに思考を停止させられたのだからたまらない。
「3~4か月といったとこかの、専門医に診てもらいなさい」
「……………………ん?」
やっと治療室に呼ばれたかと思えば自分と同じであろう表情をしている香と目が合った。
意味が解らない。
「だから専門医に行けと言っておろうが」
「……誰が?」
「香くんに決まっておるじゃろ」
「何の?」
「産婦人科に決まっておろう、わしゃ専門外じゃ」
「……どうしてです」
「じゃから―――」
どうしても疑問詞でしか返事が返ってこない僚に見かねたかずえが間に入る。
「おめでたなんですって」
「…誰が」
「だから…もう、冴羽さんたら大丈夫?」
全く話が進まない。
香は目の前の騒ぎをボーっと見つめながら、やっぱりあの日の夜だったのだと指折り数えてみた。
「…ふふ」
僚のぽかんとした表情を見ているうちに全ての力が抜け、笑いが込み上げてくる。
つられて僚も戸惑った表情のまま笑う。
「は…はは…」
「―――僚!」
胸に飛び込んできた香を柔らかく受け止めると、やっとで頭が働きだす。
「は…はは……この数日いったい何だったんでしょ…」
また胸の中で香が笑う。
「僚、あたし―――」
「ああ」
「今すごく…気持ち悪…ぅえ」
「お、おまえ何言うかと思えば…ちょ、タンマ!」
「あなた達、ふざけてるなら早く帰りなさ~い!」
-*-*-*-*-
助手席に座った香が真っ先にした事は窓を全開にする事だった。
僚は「ひどいのな、お前」と文句を言いつつ運転席の窓もそれに倣う。
いつもよりも慎重にクラッチを足から離していくと滑らかに車が走り出す。
「やっぱり部屋に着くまで…泣いてもいいかな」
「上着ならもう貸さねぇからな」
「うん、いい」
ここ数日の感情を全て洗い流そうと思った香だが、ふと気になり運転中の僚の横顔を盗み見る。
「………」
口元が笑っている。
かと思えば急に顔つきが険しくなる。
そう見えたように思えば今度は泣きだすのではと思うほどの切なげな顔をする。
そしてまた口元を綻ばせる。
やがて煙草を探したのだろう、懐に手を入れようとしてハッとなってそれを辞める。
「…っふ」
「あん?」
「ふふ…あははははははは!」
「お前泣くって言わなかったか?」
「だって…ごめ…ふふふ…おかしいんだもん…っははは!」
「お前は泣いたカラスか」
照れ隠しに口を尖らせながら僚がぼやく。
ダメだわおかしい、と香が目に溜まった涙を拭いた。
お互い芽生えた感情は何であるのかには触れないまま、車はガレージへと消えていった。