彼が、器用な人間だったら。
そう思った事が、何度もあった。






















jack of all trades



























「いやぁ〜、ご苦労だったね、野上君!」
あまり空調の利かない部屋で、気持ちの悪い位汗をかいた男が私の肩を叩いた。
ライトグレーのシャツに、暗い汗のシミが出来る。
「……いいえ。」
少しだけ作り笑いをすると彼はそのまま、大声で話し続けた。

「君のお陰で痴漢集団を検挙する事ができたよ」
「囮捜査は野上くんだからこそできる仕事だな」
「そうそう!」

デスクワークをしていた眼鏡の男が椅子を回転させ、話に加わってきた。
「最近の痴漢は贅沢だよなぁ〜。こんな極上品にしか飛びつかないなんて。」
「でもこの前使った婦警は酷すぎましたよ。」
ファイルをパタパタと団扇代わりにした男も口を挟む。
「だってあのカオよお!」
「ばーか、言うなっての!」



がはははは、と下品な声を上げて3人は笑った。


「それに触るトコ無いあの体」
「だろ?出るトコ出ないと痴漢も食いつかんわなァ?」

また笑う。






「あー野上君、お茶入れてよ。冷えた麦茶!」

私は精一杯の笑顔で「ちょっとおトイレに…」と誤魔化すと首を傾けた。
誰があんた達にお茶なんか。
そういう意味だったのにもかかわらず、鈍感な人間はどこまでも鈍感だ。






「あー、女のコは大変だねェ」

汗ばんだ男が目をいやらしく細めてそう言った。
二人が笑う。
「………」

私は思わず拳を握った。











「氷なしですけど、どうぞ」










突然現れる小盆。
乗せられているのは3つの紙コップ。


「お、槇ちゃん気ィ利くじゃないの!」

紙コップの中身は麦茶だった。
盆に零れている茶を見て、きっと急いで入れたのだろうとぼんやり思った。
そこから目を逸らし顔を上げると持ってきた人物と目が合った。
大きな眼鏡の奥が『行っていいぞ』と合図していた様だったので、遠慮無く私は踵を返す。




「あ、野上君。」
また汗ばんだ男が私を呼ぶ。




「君も槇村ぐらい気が利かないと…嫁の貰い手なくなるよ?」






ああ、鬱陶しい。






「気をつけますわ、村上課長。」
ニッコリ笑って其処を出た。
遠くで
「俺は村下だ!」
そんな声が聞こえてきた。
















風もない。空調設備も無い。
それなのにロビーの方が涼しく感じられたのは、きっとあの汗かきがいないからだろう。


自販機に100円玉を入れて、炭酸飲料のボタンを押す。
「……」
反応がないそれに少し苛立ってもう一度、人差し指で乱暴にボタンを押す。


「……いい度胸してんじゃないの。」


今度は拳でそれを押した。いや、叩いた。





















「モノにあたるなよ」




背後から手が伸びる。

大きな手がワンコイン投入して私が叩いていたボタンを押すと、欲しかった飲み物が簡単に落ちてくる。














「出なかったらもう一度金を入れりゃいいさ」
のんびりとした口調だった。




「……お礼なら言わないわ。」
「そんなモノ期待していなかったな」
「さっきの事も、よ?」

コーラを取り出し、振り向いた。
案の定、その男は笑うでもない、怒るでもない。
何にでも無頓着そうな、そんな気の抜けた表情をしていた。






「さっき?……あぁ。」

彼はやっとで笑う。














槇村秀幸。
それが彼の名だ。


私とほぼ同時期に此処へ配属された。
私の他に女刑事は此処にいない。今…唯一彼だけが楽に話せる人間だ。
ボーっとしているようで実はそうでもない。仕事は確実にこなす。
だからと言って他の男達と同じ、あんな態度で威圧したり見下したりはしない。(下っ端だからってのもあるでしょうけど)






「わざと課長の名前間違ったろう」
「あら、私間違ってた?」
「とぼけるなよ。」
彼は苦笑した。

「怒ってたぞ」
「そういう事は気にしない主義よ」
「お前なぁ…」
「あいつの事だもの、どうせ『女の癖に』って言ったんでしょう?」

「……」




彼が器用な人間だったら。
私はそう思った。


私がからかわれているのを見て急いで麦茶を入れてくる程気の利いた男だ、こんな女の推測『言っていなかった』の一言で片付ければいいのに。

彼は心根が不器用だ。




「……その…何だ」
「言ったのね、あの汗狸。」
「…汗狸か」

こりゃあいい。
彼はフッと笑った。

「ネーミングセンス、いいでしょ?」

そんな彼に私も笑い返した。














−*−*−*−*−*−*−














マンションに戻って真っ先にしたことはシャツを脱ぎ捨てる事だった。
汗はとうに乾いていたけれど、あの汗狸が触れたかと思うといてもたってもいられなくなる。
シャツを親の仇の様に握りバスルームへ直行した私は、ランドリーバスケットにそれを放り投げた。
そして汗ばんだ体からタイトスカートを引きはがす。

「気持ち悪いったらありゃしない」

私はシャワーのコックを捻ると、温度を少しだけ上げた。
精神疲労には熱めの湯がいいらしい。







このマンションは父親が探し、父親が契約をした。何でも警備やら防犯機能やらが充実しているとか。
住む処くらいは自分で決めたかったが、強引な父親に『ノー』は通用しなかった。
一人暮らしを認めさせた事さえ奇跡だ。

―――そういえばたった一度だけ『イエス』を言わせた事があった。

私が刑事の道を選んだ時だ。

『女に務まる仕事じゃない』
頑なに女刑事を否定する父親に私は

「…あら?どうやって…?」

湯が熱すぎて記憶が飛んだのかしら。

汗を洗い流すと私は苦笑しながらバスローブを纏った。

思考がどこまでも飛躍していく。



「第一、どうして刑事になろうと思ったのかしら」

とんだ独り言だ。

今じゃ自分が何をする職場にいるのかさえ解らない始末だ。




痴漢の囮に
お茶汲み
コピー取り
テーブル拭き!




「…OLになるべきだったかしら」














冷蔵庫から発泡酒を取り出し栓を開けた。
口元に運んだ瞬間、留守電のランプが点滅している事に気付く。

「……」

少し考えてから、点滅する赤いボタンを押した。




『ハーイ、姉さん?麗香よ。』




……やっぱり押すんじゃなかった。
後悔先に立たず。
メッセージが一方的に流れる。




『姉さん、警察はどォ?』
「どォって……汗狸にセクハラされる場所よ。」
『大学はそろそろ就活で鬼気迫る時期になりました。』
「鬼気迫る割にはのんびりした口調だこと。」

『そうそう、アタシも刑事目指します。試験日楽しみでーす!よろしくね、先輩♪』

「んな…!?」















ピー……




















何て事言うの、あのコ!
少し前まで『外資系』って騒いでなかった…!?














「…楽しい事…何ひとつ無いんだから」

本人にかけ直す気力もない。
代わりに電話を指で弾いた。

爪先のピンクのマニキュアが少しはげていて、何故だか悲しくなった。


片手に握った発泡酒を見て
「こんなので酔えますか。」
そう呟いた。
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