死んだ。

当たり前のようにヒマラヤ奥地から日本まで数日で舞い戻ってきた僚とは違って、槇村は戻らなかった。

シルキイクラブから自宅まで。
都内のたった数十分の距離さえ辿り着けずに彼は死んだ。

願いは 叶わなかった。


槇村の死を淡々と告げた僚は私の精神状態に構う事なく続ける。

槇村の妹には自分から事実を伝えた上で安全な処へ逃がすから詮索無用。
ユニオン・テオーペが静かになるまでシティーハンターと関わるな。
いい機会だから俺とは縁を切って健全な警察官に戻るといいさ、と。









「なぜ北尾で妥協せんかったのだ、お前は」

健全な警察官―――ではなく、今目の前にいるのはただの酔っぱらった父親だ。
野上家の大黒柱は、四合瓶を逆さにして一滴も残っていない事を知ると今度は手元の一升瓶を手繰り寄せる。
警視総監がゆっくり家庭で酒を飲む事も少ないだろうからと許した私達が悪かったと今は思う。

「飲み過ぎよお父様」
「うるさい、これは唯香の受賞記念の祝い酒だ!」
「当の本人はもう部屋に戻っちゃったじゃない!さ、お開きよオヤジ様」
話の雲行きが怪しくなった事に気づいてくれたのだろう。麗香が私に調子を合わせ酒を取り上げようとする。
しかし迷惑な酔っ払いは、一升瓶を抱きしめて離さない。
「うるさい麗香、大体お前も冴子も変な男にたぶらかされおって!」
「まだ言ってるこのプッツン親父!僚の事だったら、あたしも姉さんも彼とどうにかなろうと思ってなんかいませんからご安心を!」
「あれはダメだ、絶対にだぞ!」
「はいはい、もう寝ましょうねお父様」

「―――いいか、本当にあれだけはやめておきなさい」

たった今まで酔いどれ中年だった男の声と目の色が変わる。
「何も気づいていないとでも思っていたか。…確かに馬鹿な父親にしか見えんだろうがな、私は」
「お父様」
「とにかくあの男だけは絶対にやめなさい。お前たちの手には負えん。一人の女をどうにかしてやれる男じゃあない、あれは」

「…知ってるわよ、充分」
吐き捨てるように麗香が応えた。
「どうにかできていたら、あたしも姉さんも今頃こんな処にいませんから」
「どういう意味だ麗香ッ!」
「お母さまを呼んでくるわ。悪酔い親父を止めてもらわなくちゃね」
「ま、待て麗香!」
べー、と舌を出して麗香がリビングを出て行った。
双子はもう入眠しただろうか。それによって、悪酔い親父の末路も変わる。
妹の世話を経験している私も麗香もよく知っていた。寝かしつけを邪魔された母親ほど恐ろしいものはないのだと。
「た、頼む麗香ぁ~!」
「自業自得ですわ、お父様」
「違う」
「違うも何も酔―――」

「違う。わたしはただ…お前たちに後悔して欲しくないだけだ」

力なく呟く親に、安心を与えられるような何かを言えたならどんなに良いか。
けれど、今の私はそれに応える術を持たない。

「………」
「顔が似ていたのだろう?北尾は。経歴も悪くない。あれで良かったじゃあないか」
「あのね、顔や経歴の問題じゃないの」
「わかっている。分かっているんだが私はお前の父親だ。刑事もいいが、やっぱりお前は幸せになりなさい。お前はよく頑張った」
「お父様……」
「明日も早いのだろう。もう帰れ」
顔を背けた父親は一升瓶の栓を抜いてしまった。
「あなた」
同時にリビングのドアが開く。
「麗香のやつ、本当に呼ん―――ああ、わかったわかった!あと一杯だけ!」
「いけません」
「っぐわあああ!これだから女ってのは!私は早く息子が…仲間が欲しい~!!!」



「何あれ」
「知らないわよ」
大騒ぎする酔っ払いを母に任せて麗香と家を出る。
飲み直そうかと麗香が訊くが、とてもじゃないけどそんな気にはなれない。古傷を抉られて塩を刷り込まれたまま、柔らかな包帯で包まれてしまったのだ。早く自分で手当てをし直さなければ私の傷はじくじくと痛むばかりだ。
「遠慮しておくわ。明日早いの」
「残念!奢ってもらおうかと思ったのにぃ」
「だろうと思ったわ。早く帰りましょ」
断られる事を見越して言ったのだろう。どこか安心したような顔で麗香が笑った。
中間子の麗香は奔放に見えて、実は周囲への気遣いが細やかだ。緩衝材のような麗香がいなかったら、私はあの父親にどう返事をしていたのかわからない。

「助かったわ、あなたがいて」
「どういたしまして!姉さんが独身貴族でいてくれる限り、体裁が大事な親父様はあたしに見合い話持ってこないワケだしね。お互い助け合いましょ!」
「フフ…そうね」

「でも姉さん」
「なあに」
「親父様じゃないけどね、あたしも思うのよ。姉さんには幸せになって欲しいって」
「どうしたのよいきなり」
「いきなりじゃない、前から思ってたわ。あたしはほら、夫婦探偵だ何だって要求した事はあったけど…もう僚の事なんか想ってない。本当よ。でも、姉さんはそのままで進める?」
「麗香?貴女ったら何―――」
「いつまでも後悔したままで姉さん、次に進めるの?」

大事なことほど後から気づくのは当たり前の事だと思って生きてきた。
私の人生は後悔ばかりだ。

「そうね…進むかどうかは判らないけれど、次に何をすべきかは解ってるつもりよ」
「そ!ならいいんですけど」
「生意気な妹ね」
「いや~ん、お姉さま、大好き!」





-*-*-*-*-





「冴子さん」

ハッと我に返って目の前で動いたモノに焦点を合わせる。白く綺麗な手だった。
私はきっと何度か呼ばれたのだろう、香さんが手を振って神妙な顔つきをしている。
「大丈夫?冴子さん。ボーっとしてた」
「…ごめんなさい。考え事をしていたわ」
「何か事件でも?」
「いいえ、ちょっと前の事を思い出しちゃって」
「そう。…あ、でも大変な時は私達を頼ってね。力になるわ」
「あーら、いいの?そんな事言っちゃって」
「ただし、ちゃんと正規ルートでの依頼じゃないと受けませんから!間違っても僚にツケを作らないでね」
「ホホホ、善処するわ」

香さんは優しい。
女狐だの何だの言ってはくれるが、私が事件で窮した時には必ず力になろうとしてくれる。
自分が役に立てない仕事であろうと思えば、黙って僚を寄越してくれているのも知っている。

香さんは優しい。
そして香さんは穢れが無くて、日々美しさを増していく。

―――――『一生純愛に悩まされる呪い』かけておくわ。
あなた、いつか絶対に恋愛で苦労するから見てなさい

いつだかの呪いは効いているらしい。こんなに素敵な女性を前にしても、未だ僚は「愛してる」さえまともに言えずにいるのだから。
でも、この呪いもそろそろ解かなければいけない事は知っていた。
私はまだ、ぼんやりとあの日の夜を思い出す。

麗香は私に訊いた。
『いつまでも後悔したままで姉さん、次に進めるの?』と。
次に何をすべきなのか。それは―――――


「ねえ香さん」
「なあに?」
「私、以前貴女に伝えた事があったわよね。私と槇村、そして僚は三角関係だった、って」
「――――…ええ」
香さんの表情が一瞬で強張る。
「あれ、間違っていたから取り消すわね」
「………え?」


三角関係だと伝えたあの時。きっと私は香さんに嫉妬していた。
槇村の最愛の妹。それだけならばまだ良かった。

槇村を亡くした私に、僚は何もしなかった。
ああ、違うわ。何もせずにいてくれたと言った方が正しい事は今なら解る。
だって香さんに伝えるより先に、彼の死を知らせてくれた。
彼の事後処理をさせてくれた。
触れる事が できたから。

ユニオンが大人しくなった頃、久しぶりに仕事を携えXYZをしてみれば彼の隣には当たり前のように香さんがいた。
槇村に写真を散々見せられたから彼女の事は覚えていたけれど、見間違えたフリをしてボウヤと呼んだのはやっぱり嫉妬だったとしか言いようがない。

危険だからシティーハンターに関わるなと言った僚は、槇村の妹をパートナーに選んでいた。
健全な警察官になれと言った僚は、槇村の妹を表の世界には返していなかった。
私の身体を気安くまさぐる僚は、槇村の妹には決して同じ様に触れない。
色気が無いから女として見られないから、と言い訳をして清いものを清いままに育て上げていく。
そして、槇村が最期に残した言葉の中に私はいない。

私が求めた愛され方を彼女は全て知っている。
私はあの時、香さんになりたいとさえ思った。

「私ヤキモチ妬いていたのよ貴女に。槇村も僚も、貴女の事を本当に大事にしていたから。本当はね?三角関係どころか僚が私に恋愛感情を持ってくれた事なんか一度もないわ。従って体の関係も一切ナシ!貸しのもっこりなんて天気の話と同じよ」
「本当に…?」
「ええ!逆に一度でも強引に抱いてくれていたら何かが変わったのかもしれないけれど!」

「そっか…」

呟いた香さんは静かに涙を零した。
「あ、れ…あたし…」
気にしていなかった筈なのに、と香さんは掌で涙を拭う。
「あたしは冴子さんが羨ましくて…美人だし、強くて…僚は貸しの為なら冴子さんの依頼を断らないし、だからきっと過去に何かあっただろうなって覚悟はしていた筈なのに…でも悔しくて、こんな自分が汚くて嫌で…!」

ああ、ごめんなさい香さん。
私のかけた呪いは僚だけでなく自分自身にも、それどころか彼女の心さえも蝕んでいたなんて。
汚い所なんか、ひとつもない。
静かに零れ落ちていく涙は綺麗だった。とても。

「でも、何で」
戸惑いながら香さんが訊く。
「そろそろお二人さんの背中を本格的に押したくなったのよ。槇村の為にもね」
「アニキの…?」
「ええ。もう、そういう頃合いだと思ったから」
「冴子さん」
「クロイツの件、事後報告をしようと思ったけれど戻らないみたいね。今日は帰るわ」
「あ…ええ」
「じゃあ」
「あ、待って冴子さん」

「何て言ったらいいのか…ありがとう、冴子さん。あたし、アニキが選んだ人が冴子さんで本当に良かったと思ってた。…ずっと」
「香さ、ん」
「あたしもヤキモチ妬いてたから面と向かって言った事ないから…へへ」
「いやね…言わなくていいのにそんな事」
「ううん。アニキは不器用だから分かりにくかったと思うけど…冴子さんの事、きっとすごく愛していたんだと思う」
「香さん―――…」

「アニキの遺品にね、警察関連の人の名前や写真は幾つか残っていたんだけど、冴子さんの名前だけは一つも見つける事ができなかった。でも二人はコンビを組んだ仲でしょ?初めはおかしいと思ったんだけど今なら解る。大事だったから…愛していたからこそ痕跡を残さないでいったんだ、って」
「ぁ………!」
「アニキってばあたしの事は僚に託したけどさ。冴子さんだけは渡したくなかったんだ、冴子さんはあたしと違って一人でも大丈夫って信じてたんだ、って思ったら…そんな分かりづらい愛情表現…何だか不器用なアニキらしいなって」
フフと笑った香さんを目の前に、今度は自分が泣く番だった。
思いがけず零れた涙に、私は慌てて頬を抑える。
「きっと僚も、それを解っていたから冴子さんに手を出さなかったんじゃないかしら」
「そう…かしら」
「そうよ、きっと。あいつ言葉にはしないけど、そういうとこはちゃんとしてるって思ってるの!あたし」
「そうね…そうかもしれないわ…。」

「たっだいま~」
すん、と鼻をすすったところで僚が帰宅する。
「おかえり。冴子さんが待ってたのよ」
「あん」
香さんに言われた僚が私を見る。
一瞬、彼は微笑んだように見えた。
でもそれはほんの一瞬。気づけばふざけたにやけ顔で私に迫ってくる。
「わざわざ出向いてきたって事ぁ、貸しの6発を返しに来たんだろうなあ?冴子」
「あらご挨拶ね、私はクロイツの件で事後報告に来ただけよ」
「うんにゃ、6発支払え!今すぐだ!」
「あ、あらぁ?それはこないだの情報でチャラに、」
「なるか!いざベッドルームへ―――」
「くぉら僚!あたしに恥かかせやがって、この節操なし!!」
「んな、何の話だ香ィ!?」
目の前で『前言撤回』と書かれたハンマーが振り下ろされ、すっかり涙が乾いてしまった。
ぜえはあ、と荒い息を吐きながら香さんが私に言う。
「冴子さん。さっきのナシ!こいつはやっぱり何も考えてないスカポンタンよ!」
「は…はは…やっぱり?」



縺れていた何もかもが一斉に解れていく。

きっと二人は前へと進む。

そして、私も。







「失礼します、お父様」
「総監と呼べ、総監と!…で、何だこれは」
「見ての通り、お見合い写真です。全てお返ししますわね」
「冴子!いい加減に―――」

「決めました。私はいつか貴方のその地位に辿り着きます。絶対に」
「馬鹿な。女に何が」
「性別は関係ありません。私は私のやりたいようにさせて貰います。お父様の望む、お見合い結婚は今の私には必要ないのでそれを伝えに」
「…勝手にしなさい」

一升瓶を抱えて背を向けたあの時と同じ格好をとった警視総監に私も背を向け、総監室を出ようとした。

「冴子」
呼び止めた彼の声は父親か警察官か、一体どちらの立場だったのだろう。柔らかい声だった。
「はい」
「…いい目をするようになった」
「お父様」

「この仕事に不向きだと言ったがあれは間違いだったようだ。取り消そう」








少しずつ、私の中の時が動き出す。









「おーい、現場汚すなよ」
かつて新人君と呼んだ刑事は、何年も前に自身が言われた事を偉そうに言い放つ。
真新しいスーツに身を包んだ現在の新人君は、真っ青な顔で首を横に振る。
「おいこら、野上さんに怒られっぞ」
「あら、そんなに怒らないであげて。懐かしい光景でしょ?貴方も」
「いや勘弁してくださいよ野上さん!…それより」
「ええ、厄介ね…この事件」
「どうします」
「ちょっと席を外すわね。あとは任せるわ」
「あ、野上さん!」

―――あの人、でかいヤマの前に絶対休憩挟むんだよなぁ。
その気付きも含めて成長著しい彼だけど、本人が聞こえる処でぼやいてしまう辺りはまだまだね、と思う。
私は車に乗り込むと携帯電話を取り出した。

「ハロー、僚?ちょーっと手伝って欲しい事があるんだけどなぁ」

パートナーとの関係が少しだけ変わった電話の相手との変わらないやりとり。

これでいい。
これ以上の器用な生き方なんて知らない。

私は独身彼氏ナシの見合いに失敗した只の公務員。
ひとつだけ誇れる事は、死ぬほど不器用な恋愛を生涯一度だけしたという事。
たった一つの誇りを胸に、私は今日も此処で生きる。


「じゃ、よろしくね?僚」
弾んだ声のまま通話を終えようとすると僚が言う。
『へいへい。おたくさんも無茶はするなよ』
「あ~ら、私が無茶しない事なんてあった?」
『…槇ちゃんが泣くぜ』
「バカね、逆よ」


いつだって笑うのよ。
私の知ってるあいつはね。

いつだって笑うのよ。背中を丸めて、困った顔で。

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