叩き付けたマイクロチップの微かな音が頭から離れない。
槇村秀幸はもう、こちら側の人間ではない。
汚い部屋を飛び出して、私は走った。
「…ッ…!」
瞳から零れる滴を拭う事も忘れ、私は走った。
いつから。
いつからだった?
彼は、何を見たの。
何を、知ったの。
何を 決めたの?
曲がり角を曲がればもう現場だという処で立ち止まると涙を乱暴にスーツの袖で拭う。
高級ブランドであるそれにマスカラがじわりと滲んでから、ああやってしまったと後悔した。
「……何よ」
呟くと角を曲がる。
私にはまだ、やらなければならない事がある。
「遅かったですね。もうあらかた片づきましたよ?」
新人がやけに明るい顔で私を迎える。空気を読まないその様子が勘に障る。
「現場を汚しておいてよく言うわ」
「あ、すいませーん」
それでも彼がヘラヘラと顔を緩める。
「……?」
「おい野上!」
「汗…」
狸。
言いそうになって思わず口を抑えた。
「大手柄だぞ、こりゃ!」
「はい?」
「マイクロチップだよ!お前のおかげで麻薬組織が一つ潰れるぞ!」
勿論うちの署が多大な貢献をしたという…汗狸が誇らしげに我が署のだの何だの、自分達の手柄である事を強調している。
違う、問題はソコじゃない。
「マイクロチップを…誰が…?」
解りきっていても、それでも訊いた。
「何言ってんだ野上。お前が槇村に渡すよう頼んだんだろう?しっかりアイツから受け取ったよ」
「最後までいいパートナーでしたねぇ」
後輩がウンウンと頷いて感慨深げに一言放った。
最後までいいパートナー。
どこがよ。
何から何までひた隠し。
無口でお節介。
私を女として見てくれなくて、抱いてさえくれなかった。
最後の最後まで、そう。
ただただ私が惨めじゃない。
望んでいた通りに麻薬組織が一つ、確実に潰れた。私の心は晴れる事がなかったが、どうこう言っていられる程警察は暇じゃない。
毎日の仕事に忙殺され、いつしか感覚は麻痺していった。
「……」
『捜査は足が基本』
誰だったか、そんな事を言っていたっけ。あれはドラマの見過ぎだったのか、あの男の心からの一言だったのか。
いっその事パンプスをやめてスニーカーにしてしまおうかしら。
公園のベンチに座り込み、伸ばした足先を見てそう思った。
「…やっぱりダメ、おかしいわね」
ミニスカートにスニーカー姿の自分を想像したらみっともなくて仕方ない。
『おかしいと思わない?』
妹が辞表を出したのは昨日の事だった。
あんなに『ミニスカートの美人デカって良くない?』なんて毎日浮かれ調子で出勤していた能天気なあの子が。
『後悔はしないつもりよ』
示し合わせた様に槇村と同じ台詞を吐いた麗香がこんなにも憎らしく思えたのは初めてだった。
思えば小さい頃から麗香には振り回されていた。
私がコツコツと積み上げてきた努力の山をあの子はいとも簡単に越えていく。
『姉さんは上にのし上がっていく事に重きを置いているのかもしれないけれど私は違う。此処にはもう、私の大事にしたいものは無いわ』
のし上がる、ね。
そうとだけ見えていたのなら署内の人間は皆同じ事を思っているに違いない。
私の大事なもの?
「……私は―――」
口を開いたと同時に目の前の噴水が派手な音を立てて水柱を作った。
びくりと顔を上げると水しぶきの更に向こう。
植え込みの奥に見慣れたヨレヨレのコートを見つけた。
「槇――」
言いかけて唇が凍った。
難しそうな顔で眼鏡に手を当てるのはいつもの癖だ。
話し込む相手はどう見ても真っ当な職種の人間ではない。長年の勘が確信した。
サアアア……ッ
噴水の水力が弱まった。
幸い向こうは私に気付いていない。
私は立ち上がると背後の木に身を隠した。
「……」
男が槇村に向かって指を立てる。槇村は首を横に振る。
男は照れ笑いを浮かべながら懐から封筒を取りだした。
男は歩き出す。
すれ違い様に、そうとは分からないように槇村のコートのポケットに封筒を忍ばせる。
「何…?」
それは何度も見た光景と同じだった。裏で動く物は、大抵こうだ。
金、麻薬、危険物。
槇村は数ヶ月前まで、これを捕まえる役回りだった。それが今では。
「何を…しているの…?」
槇村は辺りをちらりと見やった。
慌てて木陰に全身を隠す。
数秒後、顔を出して見ると槇村の姿は既に無かった。
「……」
私は男の去っていった方向へ走り出す。きっと本人を問い詰めるよりも情報が得られるだろうから。
「ちょっとそこの貴方。」
ポン、と軽く肩を叩くと男は非道く反応した。
「んなっ…何だ!?」
「ちょっと訊きたい事があるんだけど。」
警察手帳を見せると彼は明らかに顔色を変えた。
こっちへ、と路地裏に男を引きずり込む。
「んな、何だよ」
「さっきの事を教えなさい」
「さささ、さっきって何だよ!」
「あの男は何者なの?」
「――――はあ?」
槇村について問いつめると、男は素っ頓狂な声を上げた。
「何だ、姉ちゃんアイツを知らないで訊いてきたのかい。はー…びっくりして損した」
途端に態度を大きくした男にカッとなってナイフを突きつけた。
「おい…警察だろ…アンタ…」
こんな事していいのかい。
脅すように、それでも切っ先に怯えながら男が震え声を上げる。
「覚えておく事ね。警察にも色んな人間がいるの」
教えなさい。もう一度、私は凄んだ。
「わ…解ったよ」
唾を呑んで、男は答えた。
「アイツはシティーハンターのパートナーだ」
「シティーハンター…?」
「おい姉ちゃん、その名さえも知らなかったのかい。問題外…」
「コンタクトを取りたいわ」
無駄口を叩こうとする男の鼻先にナイフを突きつけた。
「ぇ、えええええ、XYZ!」
「?」
「新宿駅東口の伝言板にそう書きゃいいんだよ。有名だぜ……」
「ありがと」
「うおっ!」
乱暴に男を突き放し、路地裏から抜けた。
XYZ。
書いてやろうじゃない。
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「……此処ね」
伝言板は落書きやら、恋人との待ち合わせメッセージでいっぱいだった。
どうにか空いたスペースを探し、大きく書き込んだ。
『XYZ』
「……騙されたかしら?」
こんなので本当に来るのだろうか。
あとは…連絡先?待ち合わせ場所?
さてどうしたものかしら、と考えていると
「いらっしゃい、もっこり美人刑事さん」
「!」
いつか聞いた声だった。
振り向こうとしてハッとする。
背中に固い物が突きつけられている。大きさから、かなり威力の強い銃で脅されているのだと感じた。
「振り向くな」
耳元で低い声が囁く。
言われるがままに無言で頷いた。
「そう、いい子だ」
言うことさえ聞けば悪いようにはしない。
そう言いながら彼は手を伸ばしてくる。
左手が腰を、右手は胸元を……って、じゃあ背中に当たっているのは?
「――汚いモノ突きつけるんじゃないわよッ!」
胸に届いた手を掴み、一本背負い。
投げられた当人は頭から床に突っ込んだ。
「サエバリョウ!」
「は…ぃ、どうもぉ…。」
情けない声で手を振ったその男は、あの日私を殺そうとした人間だった。
「で?何の依頼かな?もっこりちゃん。」
逆さまになったまま彼は言った。目が冷たく笑っていた。