コーヒーを二つ。ウェイターにそう告げると
「俺、金無いんだわ」
目の前の男はここまでついてきておきながら、平然と横から口を挟んだ。
「…奢るわ」
「悪いね」
悪びれずに男――サエバリョウは笑う。
駅から差ほど離れてはいない喫茶店に腰を落ち着ける事にしたのは公衆の面前でなら彼も危険なマネはしないだろう、そう睨んでの事だった
んだけど。
「もっこりウェイトレスのかぁ~のじょ!ボキちゃん君を注文したいなあ、グフフ!」
……前言撤回。公衆の面前であれ何であれ、この男は危険だ。
-*-*-*-「で?依頼は?」
コーヒーが運ばれると、それまでキョロキョロと美女を物色して落ち着かなかったサエバリョウが急にゆっくりとした口調で訊いた。
「……」
「人捜し?浮気調査?それとも――」
「殺し?」
背中がゾクリと震えた。
相変わらずにやけた顔をしているが、彼の内面は隠しきれていない。
槇村はこんな男と一緒にいて何も思わないのだろうか。
『シティーハンターのパートナー』
さっきの男の言葉が頭にガンガンと響いている。
私よりもこの男と仕事をする事を選んだのだ、槇村は。私よりも。
「…私は――」
「槇ちゃん返せってか」
「彼は刑事よ」
「『元』だろ?」
「貴方とは…」
「一緒にして欲しくないワケやね」
「残念ながら」
フッ。
サエバリョウは小さく笑う。
何もかもお見通し。そんなことでも言いたげに笑う彼に嫌悪感を覚える。
「…それにしてもここのコーヒーあんま美味しくないのな」
「同感だわ」
「これで650円かよ。ぼったくりもいい所だ」
「奢りなんだから文句言わないで頂戴。ま、貴方にはインスタントがお似合いなんでしょうけど」
「……」
「な、何よ」
…怒らせたかしら。
無表情でじっと見つめてくるサエバリョウに少しだけ怯む。
「名前」
「え?」
「名前。何て言ったっけ?」
「…野上。野上冴子よ」
「冴子か、いい名だ」
「……」
「なあ冴子」
「馴れ馴れしく呼ばないで―――」
「そーんな怖いカオしてると、槇ちゃんだって逃げてくぜ?」
「……んな…っ」
急に核心を突かれて思わず赤面する。
何。
何なの、この男。
何を知っているの。
何を知っていてそんな事を言うの。
「……せに…」
「ん?」
「貴方が奪ったくせにッ!」
バン!!
「貴方が彼を唆したのよ!貴方さえいなければきっと…きっと…!」
目から何かが零れ散り、ハッとして口元を押さえる。
周りの客が何事かと視線を向けた。
「あの…お客様…?」
ウェイトレスがおずおずと声を掛けてくる。
「…ごめんなさい、お騒がせして」
私はハンドバッグから財布を取りだし、テーブルに1万円札を置いた。
「おい、冴子――」
「さようなら」
-*-*-*-
「冴子ちゃ~ん」
「……」
「なぁ、冴子」
「……」
「さっきのお店でお釣り貰ったんだけど。ホラ!」
後ろからサエバリョウがついてくる。
右手に札を、左手に小銭を握りしめて。
「あげるわ、お金ないんでしょ」
「いや…女の子にお金貰う主義は無いの、ボキ」
「……」
もう、いいのよ。
どうでもいいの。
こんな男とどうして仕事なんかできるのか。
どうやら私は槇村を買いかぶりすぎていたようだ。
後ろを付いてくる男はさっきから通り過ぎる若い女性をナンパしたり、鼻の下を伸ばしたりと忙しなくだらしない。
「仕事に戻るわ。もうついてこないで」
目の前には私の生きる場所。
此処は私にとって戦場であり終の棲家だ。
槇村はもう此処には居ない。だけどもう、それでも構わない。
「言っておくけど、闇でしか生きられない貴方達は…私達の敵よ」
「おいたすれば俺どころか槇ちゃんだろって逮捕しちゃうぞ、って事かな?」
「そうね、そういう事になるわ」
「槇村は…さ」
踏みだしかけた足が止まった。
「最後まで悩んでいたよ」
「……」
「全く、あんなに不器用な男もいるもんだ」
「……」
「なあ冴子。困った時はどんな依頼でも受けるぜ?支払いはもっこりでOK!」
「……」
「今日はたまたま俺が通りかかっただけだが普段は槇ちゃんが依頼人と連絡を取る」
「……」
「逢えるぜ。いつでも来いよ」
「いいえ結構」
私は再び歩みを進める。
サエバリョウもその後に続く。ついてくる先には今更何があるか知らないわけじゃあるまいし。
パトカーが見えても警官の姿を見ても、それでもサエバリョウは私の後ろにひたすら続いてくる。
「あ、野上さんご苦労様です」
通りかかった部下が頭を下げる。
「ああ、ちょっと」
「はい?」
「この男」
私はサエバリョウを指さす。
「痴漢。捕まえといて」
「んなあッ!?」
「了解です!おいお前、こっちへこい!」
「ひょわあ~ッツ!」
「あっ、逃げるんじゃない!」
捕り物を後ろに聞きながら私は振り返らず歩いた。
もう、彼らと会う事はない。サエバリョウとも 槇村とも。
そう思っていた。あの時は。
-*-*-*-
コーヒーを淹れようとして汗狸と目が合った。
ああいやだ、と思う間もなく彼の視線が自分を呼んでいるそれだと気付く。
仕方なく目配せをすれば汗狸が頷いた。
「課長、コーヒー淹れましょうか?」
「ああ、隣に頼む」
隣は応接室で、咄嗟に二択が頭をよぎる。
内密の重要な仕事を任されるか、それともただのセクハラか。
後者だったならどうしてくれようかしらと思いながら太腿のナイフを肌で確認した。
応接室に入ると汗狸は険しい顔つきで私を見た。
「野上、総監がお呼びだ」
「了解しましたけど…御用はそれだけでしょうか?課長」
こんな事は日常茶飯事だ。
父が警視総監である事は上層部は勿論知っている。
余計な問題を増やしたくない汗狸は、うまい具合にその事実だけに目がいってしまう事がないよう配慮するようになったし、お呼びがかかればこうしてこっそりそれを伝えてくれもした。
「おい野上」
「はい」
「絶対に戻って来い」
「―――はい?」
「戻って来いって言ったんだ、忘れんなよ」
急に何を言い出すのだろうこの狸は。
ああ、早速彼の脇には汗染みが広がっていく。
そんなに汗をかくほど気構えるような台詞とは思えないのに。
「課長は私が仕事をさぼって外出するとでも?」
「バカ違う、そうじゃねえ。槇村のようにはなるなって言ってんだよ」
「……え?」
「どういう…事でしょうか」「何だお前、本当に噂も入っていねェか」
「…噂って…?」
「親父さんからも聞いてねェのか?槇村だよ。まさかお前、本当にただの依願退職だと思っちゃいねえだろうな」「!?」
「組織内でも下には漏らさねえよう緘口令が出てたんだがよ、マスコミに嗅ぎ付けられちまったから今日から解禁だ」
「あいつ責任取らされたんだよ、潜入捜査失敗で婦警殉職させちまった件で」「潜入捜査!?」
汗狸の話が呑み込めない。
「潜入って…どこへです」
「お前が追ってたヤマだよ」
「じゃあ…どうして私はそれを…?」
どうして自分が担当していた筈の事件を自分が知らないのか。
そもそも私と槇村の間では潜入捜査には時期尚早という結論が出ていた。それは上にも報告が済んで了解を得ていた筈。
「あいつ同行が何日かあったろ。あん時だよ。」「!」
確か数日の同行で大きな成果を上げたとかで上層部の評判も良かったのだと聞いていたが、その割には最終日の夜は酷い顔をして辞職を口にした。
原因はこれだったのだとやっとで合点がいった。
「別件は簡単に済んだらしいけどよ、お前達の追ってる事件の方にまで話が飛んだんだと。いつまでも尻尾掴めねぇからお偉いさん達が焦れたらしい。あちらさんで適当に見繕った婦警放り込んだら…死体で返ってきた」
「そんな…!」
「一度は殉職だからと納得した遺族が今んなって騒ぎ出したらしくてな、明日の週刊誌に載るそうだ」
「そんなの当然です!世間に公表されていないのはまだ解ります。だけど殉職を警察内部の…それも現場の人間が誰も知らないだなんてありえますか!彼一人が責任を取る理由はあったんですか!?」
「うるせえな保身の為なら何だってあり得るんだよ、それがお前の生きている汚ぇ縦社会だ」
「俺もそろそろ課長より上に行きてぇんだ、余計な事言わせるな。…なあ野上」
「何ならお前だって責任を追及される可能性もあるんだ、その場にいなかったとはいえあのヤマ担当していたのはお前だからな。総監も多分その話だろうよ」
「……」
「なあ野上」
もう一度、汗狸は私の名を呼んだ。
「槇村は階級降格、僻地の交番勤務もしくは退職かを迫られて辞める事を選んだ。自分で決めた事にゃ何も言えねえけどよ、野上」
「お前、辞めんなよ」
「初めの頃は女だからとかコネだろうから、ってお前を見くびってたけどよ、今はお前を評価してんだ」
解ったんなら行ってこい、と立ち上がった汗狸が私の手からマグカップをひったくる。
『槇村はさ 最後まで悩んでいたよ』
あの時一緒にコーヒーを飲んでいた男の言葉を反芻しながら、あれはそういう意味だったのかと愕然とする。
違う、そんなことよりも。
私は槇村に、訊いて欲しくはないであろう残酷な質問を矢の雨の様に浴びせてしまっていたのだ。
こんな事ならサエバリョウにもっと聞いておけばよかった。
『最後まで悩んでいたよ』
槇村は何をどう悩んでサエバリョウに辿り着いたのか
囮捜査で何があったのか
本当に後悔していないのか。