目を覚ますとベッドには私ひとりで、お互い脱がし脱がされた筈の衣服がどこにも見当たらないから夢を見ていたのではないかと錯覚しそうになる。
だけど私の体だけはそうじゃないと言い聞かせてくれるように色々な跡を残してくれていた。
「――――槇村」
呟いてから、やっぱりそう呼ぶしか他にないのだと思った。
彼は、槇村は激しく私を求めた。
私はどうだったのか?まるで思い出せないけれど。とにかく私はそれに必死で応えた、ような気がする。
そして今、彼は証拠を隠滅するように綺麗に姿を消している。それでこの話はおしまいなのだというように。
だから私もそれに倣って今すぐ此処を発たなければいけない。
この拙い恋物語は間違いなく此処でおしまいなのだ。
明日から、また私は独身彼氏ナシの見合いに失敗した只の公務員だし、あちらは裏社会でしか生きられない、冴えない見た目の仕事一筋男。
ドレッサーの上にはオフホワイトのショップバッグが置いてあり、中を見ると下着からワンピースまで一式が揃えられている。私が見合いで着ていたものと少しだけ似ているデザインと色味はきっと配慮をしてくれた結果なのだろう。
「…素晴らしいホテルですこと」
バッグの底には槇村だろう。私のナイフがタオルに包まれて揃っていた。
ショップバッグを持ってバスルームへ入る。
同時に部屋の外が騒がしくなる。まさかと焦った指は、自然にバスルームの鍵を閉めた。
「だぁーかーら!踏み込んだ時にはもういなかったんだよ!」
サエバリョウの声が廊下から響いてきたかと思えばカードキーを差し込む電子音が続く。
――早く着替えて出ていかなくちゃ。
いいえ待って、此処で何も身に着けていない私に気付いたらあんな変態男、きっと…!
身の危険を感じれば、さっきまで火照っていた身体は熱を失っていくどころか急速冷凍されていく。
気付かれてはいけない。私は息を潜めた。
「だから一人残らず捕まえておけと言ったろう」
「だってぇ、冴子のストリップショーを最後まで見たかったんだも~ん」
「僚、お前―――」
一緒にいる相手は槇村だ。
指先に熱が戻ったのも一瞬。槇村は不機嫌そうな声でサエバリョウに詰め寄った。
「そういえばお前、冴子に色仕掛けを教えたらしいな。余計な事を吹き込むな」
「何、お前やっぱり冴子にほの字なの」
「……お前には関係ない。冴子は真面目なやつだ。ふざけた事を吹き込んで惑わせるのはやめてくれ」
「ふざけた事、ねぇ。…なあ槇村」
「なんだ」
「おまえさん本当にそれでいいの」
「何?」
「冴子をこっちに引き込みたいのか刑事続けて欲しいのかどっちだって聞いてんの」
「それは当然刑事―――」
「あの中途半端な真面目もっこりちゃんのまま?嘘だろお?」
「 」
サエバリョウ。
サエバリョウはいったい何者なの。
ただのスケベな殺し屋じゃない。
人を殺すだけの冷酷な男ではない。
見透かされる。
見透かされている。
「あのまま昇進でもしてみろ。あいつ頂点着く前に潰されるよ、色んなモンにさ」
「…お前に冴子の何が分かる」
「スリーサイズ以外はわからんよ。だけどな」
何を言うかと思えば。
「お前が彼女を大事に想ってんのなら、ちゃあんと教えてやるこった。世の中にはこういう汚い手口もある、ってな」
「僚…」
「色仕掛け、結構じゃないの!それでゴキブリがホイホイと捕獲できるんならさ。何も真っ向から勝負するだけが正義じゃないだろ」
「……」
「自分の使い方さえ覚えりゃ、あれは化けるぜ…まだまださ」
「――――!」
「ついでに俺達の使い方も分かってくれりゃあ槇ちゃんも安心でないの?」
「………」
「てなわけで僚ちゃん先帰るわ、じゃ」
去り際にサエバリョウがバスルームのドアをコツン、と叩いて部屋を出て行った。
「おい待て、僚――――」
彼の足音が消えてすぐ、手早く近くにあったバスタオルを身体に巻くと私はバスルームのドアを開けた。
「さ、冴子まだいたのか!―――今の話、」
「ねえ槇村」
私はできる限り精一杯の笑顔で首を傾げた。
サエバリョウのお膳立てしてくれた別れの場を無駄にするわけにはいかない。
「私…貴方がサエ…ううん、僚をパートナーに選んだ理由が分かった気がするわ」
「冴子…」
「彼になら安心して貴方の事任せられるわね。うん」
「んな、一体何を―――」
「だから私は私で上を目指して刑事続ける事にするわ」
「………」
「婚期は逃しちゃいそうだけどね。まあ何とか頑張るわよ」
「冴子、」
負け惜しみでも何でもなく今の心は晴れやかだ。
後悔は何一つとして無い。
余計な事を吹き込むなと怒ってくれた槇村も、
真っ向から戦うなとふざけてくれた僚も。
二人は私を生かそうとしてくれた。それだけで戦えると、今はそう思える。
「また逢いましょう。そのうち」
まだ納得がいかない表情。この調子じゃ伝わらないのかもしれない。
ねえ槇村。
貴方は私を愛してくれた。
それ以上の幸せを私は必要としないだろう。
もう二度と。
-*-*-*-*-
『身を挺してホテル従業員と客を守った勇敢な美人刑事!』
こっぱずかしい見出しに耐え切れず週刊誌を置くと、すかさず新人くんが口笛を吹いた。
「いい女っすねー、先輩!」
「うるさい、仕事に集中して」
「すいませーん」
顔出しこそ厳禁としたものの、世間の過大評価を受けたあのニュースで私の責任問題はどこか遠くへ消え去った。
消え去ったといえば、潜入捜査で亡くなった婦警の遺族が訴えを取り下げた。
誰かの提言ではないか、いや警察からの圧力じゃないのかと様々な憶測が飛び交ったが、多分私の知っている二人組の所為じゃないかと思っている事は誰にも内緒だ。
「そういえば聞いてくださいよ先輩。こないだのアレ、経費じゃ落ちないって課長が!」
「…領収書預かっておくわ」
「いや先輩が行ったら絶対無理ですって!」
「あらどうして」
「先輩が英雄になってるもんで先に昇進した同期から嫌味言われたらしいですよ?下は優秀なのになーとか何とかって―――ほら、」
噂をすれば何とやら、と新人くんが小声で吐き捨てた。余程頭にきたのだろう。いつもへらへらしている筈の彼は、デスクについた汗狸を睨みつけている。
「任せて」
「課長」
「なんだ、今日はテレビ局の取材もありませんか敏腕美人刑事さん」
「テレビ局はありませんでしたが新聞が一社」
大手新聞社の名を出すと、如何にもつまらないと言った顔で汗狸が顎を突き出した。
「ほーお、お忙しい事で!」
「はい。ですから尊敬する人を訊かれて迷わず課長のお名前出してしまったんです…ご迷惑だったかしらと思って」
「ぅ…ご…迷惑も何も」
「課長の誠実なお人柄も、部下を思う優しさも署内一だと。課長の下で働けるからこそ私はこの事件を解決できましたと言いました」
「あ、そう……そうか…」
汗狸が急に少ない髪の毛をかき上げ、緩め切っていたネクタイに手を掛ける。汗染みは相変わらず増えていく。
「お父――失礼。総監にも同じ事を申し上げて参りましたの」
「んおッ…お、おお」
眉間の皺が消えたところで私は領収書を差し出した。
「そういえば課長、これを急ぎで通して頂きたいんです」
「あ、ああ。わかったわかった。早速預かる」
「きゃあ、流石は課長!行動が迅速!」
「いや、これ位は上司として当然だ、おう」
領収書を掴んだ汗狸の手を優しく包むと彼の鼻の下は驚くほどに伸びていった。
「あら、そういえばお茶もまだでしたわね。今持ってきます」
給湯室に行けば新人くんが早々とコーヒーを淹れてくれていた。
「あら」
「ありがとうございます!流石は先輩!」
「どういたしまして」
受け取ろうとするが、彼はマグカップを掴んだまま離さない。
「どうしたの」
「あ、いや…何ていうか…怒らないで聞いてくれます?」
「勿論」
「先輩、最近オトコ変わりました?…っわ!怒らないって言ったのに!」
思わずナイフに伸びかけた手を見ると新人くんは慌てて後ずさった。
「…どうしてそう思ったのよ」
「いや、最近みんな噂してますよ。『野上さん前とは違う色気が出てきたよね』とか『優しくなった』とか『とっつきやすくなった』とか色々。」
「………」
言われて初めて気が付いた。
でも、実際そうなのかもしれない。
そうだとしたらそれは―――
「オトコ、かもねぇ。」
「えーっ、マジだったんすか!」
「バカね!ほら、さっさとコーヒー出して来て!そろそろ私、出る時間なんだから」
私は伝言板にXYZを書く。
折り返し掛かってきた電話の相手はボソボソと私に言った。
『直通の電話番号を教える。次からそっちへ掛けてくれ』
「あら、VIP待遇って事?」
『ただのお得意さんだ。で、依頼は』
「ちょっと危ない所に潜入したいからボディーガードをお願いしたいの」
『なになに?もしかして冴子ぉ?』
「はぁい僚。先日はどうも」
『どもどもぉ!それで今日は?もっこりのお誘いかな?』
「うーん、まずはデートからかしら」
『うわぁお喜んで!で、行先は?』
「うふふ、いいところなんだけどそれはまだ…ナ・イ・ショ。」
電話の向こうから興奮した雄叫びと盛大な溜息が聞こえてきた。
ねえ槇村。僚。
これでいいんでしょう?
私はもう、迷わない。