ジリリリリ…





鳴り響いたのは目覚まし時計。
それにしても大音量だ。
尤も、これで持ち主が目を覚ますとは思わないが。










ジリリリリ……











やっぱりな。

最初に聞こえたベルの音。
あれからもう大分時間が経つ。
ベルの音と同時に焼いた目玉焼きは、とっくに冷めている。



ジリリリ……リ 

お、止まった。





………  







………… 






ジリリリリ…… 




スヌーズ機能が作動したらしい。
やれやれと溜め息が自然と出てきた。

「香!遅れるぞ!いいのか?」
ドアを開けて、大声で目覚まし時計の持ち主を呼んだ。


「きゃああ!!」


…やっぱりか。


ドアが開き、俺は振り返り妹の名を呼ぼうとした。

「かお――」
「おっす、槇ちゃん。」
「ああ、何だ…僚か。」
「何だじゃないだろぉ?何時だと思ってんだよ、ったく…」

食卓に着いたのは香じゃなかった。

同居人・冴羽僚。

Tシャツにトランクスのみっともない姿。
これが独身男性成れの果てか。
こうはならないぞと言い聞かせるが、妹曰く、
「Yシャツにピンクエプロン平気で着けちゃうアニキもなかなかよ?」
と。
どっちにしろ、独身男性ってのは嫌な習慣が身に付いてしまうらしい。

とにかく、目の前の男――僚はそのみっともない姿のまま、ダイニングテーブルに付いた。
文句を垂れ流しながら。


「昨日遅かったってのに…。」
「自業自得だ。ツケで飲み歩くのはいい加減にだな……」
「あー、朝から説教なんて聞きたくねぇ!」
「なら改善しろ。」
「努力するよ。あ、俺コーヒーな。」
「解ってる。」

棚からコーヒー豆を取り出す。
本来ならこれは俺の役目ではなく
「あれ?弟クンは?」
そう、香の役目。

「あいつに殴られたいのか?妹だ。」
「その妹クンは?」
「さあ。」
「あの騒音の中で寝てたってか。」

将来大物だな。
シャツから腕を差し込んで、ボリボリと背中を掻きながら僚は言った。

「そうだな…大物だ。」



バタン!


「おはよう!」

いいタイミングで大物――いや、香がドアを開けた。

「おはよう、香。朝食は――」
「いらない!弁当!」
「できてる。」

作りたての弁当を手渡すと、香はいひひと笑って見せた。
…もういい歳なんだからいい加減微笑むとかはにかむとか、そう言った笑顔も会得して欲しいものだが、こればかりは香の性分らしく何ともいかない。


「香ちゃん、おはよ。」
「あらアンタ、いたんだ?」
「いたんだ、ってお前なあ…」
「お前の目覚まし時計に起こされたらしい。」
「あら、そうなの?」
「そうだ。俺の睡眠時間を――」
「だって久し振りの昼間登校なんだもん。起きれるか不安だったの。」
「俺まで目覚めちまったじゃねぇか。」
「丁度よかったじゃん。『早起きは三文の得』ってな!じゃ、行ってきま〜す♪」
「こら待て!」

僚がガルルと牙を剥く。
香はそれさえも見ずにダイニングキッチンを颯爽と出ていった。

「…ったく、しつけがなってねぇ!」
「悪いな、親はお前の目の前だ。」

僚はしかめっ面で俺を睨んで見せる。

「性転換するべきだ。」
「そんなに言うな、可愛い妹なんだ。」

ふう、と溜め息をつきながらテーブルに掛けた手の先。


「……」
「槇ちゃん、それって弟クンの」
「定期…だな。」

どうやら弁当と引き替えに忘れていったらしい。


「……」
「僚」
「いーやーだ!」
「じゃあ、コーヒーはおあずけだな。」
「……」
「走れば1・2分だ。」
「わーったよ!行けばいいんだろ!」

俺の手から定期をひったくり、僚は急いで香の後を追った。

「おい待て、その格好で行く気か?」


バタン。


「…どうなっても知らないぞ…」





心配になって窓の外に目を向ける。
丁度香の後ろ姿が見えた。
ジーンズに大きめのパーカー。
ショートカットの後ろ姿はどう見ても男。

「…妹、だ。」
何を言われたでもないが、そう呟いた。











香の向かう先は学校。

高校3年の最終進路希望で、突然看護士になると言い、専門学校を受験した。
夜間学校の為、3年間の学校生活。今年、やっと卒業する。
昼間、何があるでもあるまいし。

何故敢えて夜間学校を選んだのか。
そう訊くと香は言った。


「夜、一人でアニキを待っていたくない」
と。

理由なんて訊かずとも解りきっている。まあ、毎晩仕事があるわけでもないのだが裏の人間が活発になる時間帯と言えばやはりその時間であって。

生きて帰るかどうかさえ解ったもんじゃないこの世界。

香には一人でそれに耐える力がまだ、無い。




「お」

僚がやっとでアパートから出てきた。


「おーい!そこの男女!定期忘れてるぞ!」
「誰が男――きゃあ!こんな場所で何て格好してんのアンタ!」
「しょうがねぇだろ、急いでた……」
「着替えてから来いよ!知り合いだと思われるだろ!」


ドゴオオオオン!



うん…女だ、香は。

変な汗が俺の後頭部を流れ落ちる。




















数分後。

「あー、首折れたかと思った…」
僚が首をしきりにゴキゴキと鳴らしながらダイニングに戻ってきた。

「解ったろう?あいつは花も恥じらう年頃の女だ。」
「恥ずかしいとハンマーが飛ぶのか?今時の女は。」
「時代だな。」
「おい」

まあ、そう言うな。
たしなめながらコーヒーを出す。
僚の機嫌も幾分か戻ったようだ。

とっくに香の去った後も、再び窓の外に目をやる俺に、僚がぽつりと呟いた。


「もう21歳…か。」
「ああ、早いもんだ。」


「4月には可愛い看護婦さん…かな?」
「そうだといいんだが。」
「何か悩みでもあるのかな?」

僚が尋ねる。
おそらくこいつは俺が何を言うか、気付いている。


「専属になりたいんだと、俺達の。」
「専属ナース…ね。香ちゃんらしいわな。」
「それじゃあ困る。」
「あらー、どして。」

コーヒー片手にオカマ口調の僚に思わず強い語気で言い放つ。


「当然だろう?裏稼業を手伝わせたくて俺は今まで香を育ててきた訳じゃあない。普通でいいんだ。普通の……」
「普通の?」
「普通の病院で看護婦になって、普通の仕事をして欲しい。」

「んで、いずれは普通の男と普通の結婚して普通のもっこりをして欲しい…って事やね。」
「おい待て、まだそこまで――」

「僚ちゃんも賛成。」


ごっそさん。
そう言って俺に空のマグカップを投げてよこす。


「いっその事、槇ちゃんも普通になるかぁ?そうすれば香ちゃんも考え変わるかもよ?」

ははは、と笑いながら僚はキッチンを出ていった。



「僚……」




僚とパートナーを組んだのは、俺の意志だ。
警察を辞めた事に後悔はしていない。第一、今更あのもっこり男を放置するなんて。
そう思うのだが、僚は違う。
あいつが見かけによらずお人好しな上、繊細な事は誰よりも良く解っているつもりだ。
俺をこの世界に引きずり込んでしまったと、非道く後悔しているのだと思う。それは時々、痛い程に伝わってくる。


『槇ちゃんも普通になるかぁ?』

あれはきっと本心。

「できるか…そんな事。」




















香が20歳の誕生日を迎えたあの日の夜。
俺は瀕死の重傷を負った。

エンジェルダストという薬によって生み出された狂気。
それを目の当たりにした。


思えば香にとっての分岐点は、その日だったのだろう。



そして俺は、その大事な日に言わねばならなかった事を、未だ言えずにいた。


















−*−*−*−*−*−














「アニキの分からず屋!」
「何と言おうとダメだ。」

何度目だろう。
『アニキのバカ』
そう言い放って香が胸に抱いていたクッションを投げつける。
今は夕食を作っている最中だ、勿論当たるわけにはいかない。
ひょい、とそれを避けると香は悔しそうに手元のポットを引き寄せた。

「おい、それは危な――」

「アニキのバカ野郎ッツ!」



ゴン。



「っ痛え〜!」
「あ」


避けたはずなのに余りにも気持ちの良い音がする。
振り返ってみれば、餌食になったのは僚だった。


「痛ぇな!台所ってのはポットが飛ぶのが普通なのか!?」
「うるさい!!」


ヒキガエルのような声を立てて僚が真後ろに倒れた。
香はその横を走り抜けていく。



バン!


乱暴にドアが閉まると、僚の顔面にめり込んでいた炊飯ジャーが大きな音を立てて床に落ちた。
どうやらすれ違う寸前に思い切り投げつけたらしい。


「ん……な…?」
「自然災害だ。」
「どこがだよ!」

兄妹喧嘩なら余所でやれ!

僚がわめき立てる。


「悪い。」
「……」
「だが俺は…どうしても…」


言葉は続かなかった。
僚も、何も言わなかった。



















夕飯は作るよ。
俺がそう言うと僚はキッチンを出ていった。


「……」



香はどうしただろう。
僚は、何処で時間を潰す気でいるのだろう。




香は――




「くそっ。」

俺は包丁を置くと、エプロンをはずした。



















−*−*−*−












「香、さっきの話の続きをしよう。」



しつこい程に香の部屋のドアを叩く。
しかし、反応はない。
外に出た気配はしなかった。







・・・・・・・まさか。






ドンドン!


少し乱暴に僚の部屋のドアを叩く。
しかし、反応はない。
僚すらも其処にはいないようだった。

思い過ごしか、と胸をなで下ろすのも束の間、何を思い過ごしたのかと自分に吃驚する。


「……」



そして行き先をあれこれと予測するうち、あの気配に気付いた。

其処には、居て欲しくはないのだが。













「香ちゃん。」
「……」
「香ちゃん、そろそろ帰ってくれる?」
「何でよ。」
「…兄貴に立ち入り禁止って言われてるんでないの?」
「……」

そうだとも。
俺は壁越しに何度か頷いた。







射撃場。
やはり其処に二人はいた。

僚が居た処に香が入ってきたのだろう。
撃つにもそれができず、僚は苦笑しながら香が其処を出ていくのを待っているようだった。



「あんなヤツの言う事なんか聞かないんだから!」
「おいおい、たった一人の兄貴だろう?」

そんな事言わずにさ。

僚が含み笑いと感じられる声音で香を諭している。
どうやらヤツなりに、俺達の兄妹喧嘩を仲裁しようとしてくれているようだった。



「…撃ってみてよ、その銃。」

「「人の話聞けっての。」」

思わず壁越しに僚と同時で突っ込んだ。


「おまぁは…」
「いいからさ。」

どうやら香は其処に座り込んだらしい。
ズズッという音と、それから溜め息。


「これ、被ってろ。」
「うん。」




空気が  

変わった。














6発。
壁越しに聞くだけでもその音で、弾が何処にどう当たったのかが解った。
当然だが、見事と言うしかない。

一瞬張りつめた空気が、また元通りに流れ始める。



「……上手いんだ。」
「あのなぁ」

裏世界ナンバーワンに向かって『上手いんだ』とは。
流石は我が妹だ。

ははは…
思わず苦笑したのと同時。


「あたしさ」



「アニキと本当の兄妹じゃ…ないんだ。」




・・・・・香!?




「……あ、そ。」
「驚かないんだ?」
「驚いて欲しかったワケ?」
「まぁ、当然と言えば当然よね。アタシ全然アニキに似てないし。こんなに可愛いしさ、ハハ。」
「おい…」

「本当は知ってたんだ、結構前からさ。ほら、あるじゃん?戸籍謄本とか…そういうの。それにちょっと調べれば結構解るもんだね?…へへ。」
「……」
「アニキには言わないでよ?」
「…ああ。」


香。



「アニキにはすっごく感謝してる。アタシ、世界で一番アニキが大切だって思ってる。」
「…」
「アニキが殺されそうになった時、すごく怖かった。こんな世界があるんだって、初めて分かった。」
「…」
「でも、警察を辞めてまでこんな仕事をしている事、止めようだなんて思わない。」





「一緒に、生きたい。」



香……!



「一緒に、生きたいだけなの…!」













香が泣いている。
見えなくとも声が、心が伝わってくる。

恥ずかしい事だが、俺は自分の妹を見くびっていたようだ。
こんなに弱いようで、こんなにも強いじゃないか。
自分が普通の生活をできなくて、何が『普通の生活をさせたい』だ。
まるでエゴの塊だ、俺は。

喉がじん、と痛む。
それでも俺は何かを言わなくてはならない。
そう思った時、ドアの向こうで僚が口を開いた。




「殺しは教えねーぞ。」
「う…ん」
「無茶はするなよ?」
「うん!」


「なら、いいんじゃねぇの?槇ちゃん。」

「う…ん?」



目の前のドアが開き、視界に二人の姿が飛び込んでくる。
僚がドアを勢いよく開けたのだ。



「アニキ…!」


香がやけに驚いた顔で俺を見上げる。
それでやっと、自分が泣いていた事に気付く。



「香…俺は…」
「アニキ…」

「俺は…!」


駄目だ。
何かを言おうとすればそれは上手く言葉にならずに咽で涙声に変わる。


「まぁまぁ、これからの話はメシ食ってから、って事で!」

僚に背中をバンバンと叩かれ、眼鏡が鼻までずり落ちた。


「な?槇ちゃん。」

焦点の定まらない裸眼で、隣で笑う僚を見た。

一人だけ、気持ちよさそうな顔しやがって。

それから僚は後ろを振り返った。




「行くぜ?香。」




『香』。


いつもならば『弟クン』『香ちゃん』そんな呼び方をする僚なのだが、今日は何故だか違っていた。
少しだけそれが気に入らず、クイッと眼鏡を元に戻すと僚に再び視線をやった。


何だよ、その顔は。


「…僚」


まさかとは思うがお前…



「ほらほら、何ボーっとしてんのよ二人とも!」


泣いたカラスが何とやら。
未だ涙目の香が目をゴシゴシと擦りながら俺と僚との間に割って入った。


「おい」

俺の腕を。
それから、
僚の腕を。


二つの腕に、自分の腕を絡ませて、香は笑った。









……まぁ、いいか。

今はまだ 
今はただ 

共に、生きよう。

それが俺の与えられた使命なのかもしれない。










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