僚の誕生日はいつなのか。あの時の僚の表情は気にはなったが、それから香も話題にしようとはしなかった。
気遣いではなく、ごく自然に。

そうだな、余計な詮索は良くない。
余計な事を知ろうとすれば、かならず余計な災いが降りかかるものだ。

そんな事を思った矢先の事だった。




『一緒に食事でもどう?』




『どう?』とは言葉ばかり。有無を言わさず
『青山のLっていうお店の前に2時間後に待ち合わせ。ネクタイ位はして頂戴。それから僚と香さんには極秘。これは絶対よ』
そう言い放ち、冴子は電話を切ってしまった。

「………?」

とりあえず自室に戻り、クローゼットを開く。
「……どれも同じだなこりゃ」
『L』が会員制の高級レストランである事は知っていた。だが見合った服が無い。
唯一値段の張ったスーツは今やクタクタの普段着だ。
どうやら俺は冴子に怒られる事になりそうだ。






「あれアニキ、めかし込んでどこ行くの?」
小さな変化に気づいた香が声をかけてきた。この格好をめかし込むと表現できるとは、流石はわが妹だ。
「………依頼人と会う事になった。夕食は僚と済ませてくれ」
「わかった」
香はそう返事をした後、少し考えるように動きを止めた。

「……アニキ、もしかして冴子さんとデート?」
「!?」

違うがどうしてそう思うんだ、と訊くと香は答えた。

「う〜ん、なんとなく」





女ってのはこれだから不思議だ。
だがこれから暫くの間、女性の事で頭を悩ませ続ける羽目になろうとは…誰が想像しただろう。
















「誰がヨレヨレの普段着で来なさいって言ったかしら?」


『L』に着くと、冴子がまず一睨み。
「ハハ…これでも一張羅なんだが」
「無いなら無いって言って頂戴。用意したのに」
照れ笑いを浮かべると冴子は腰に手を当て、呆れたように俺を睨んだ。
「ま、いいわ。入りましょ」








−*−*−*−*−*−










「最近どう?」

乾杯もそこそこに冴子はそう切り出した。

「どうって…そうだな、うまくやっているさ。平和な毎日だ」
「…あの状況を平和と言える貴方を尊敬するわ」
「ハハ…違いない」
「ところで僚と香さんには―――」
「大丈夫だ、僚は飲みに出かけたらしいし、香には仕事だと言ってある」
「そう、それならいいわ」
「香はともかく、何故僚にまで内緒にしなくちゃならないんだ?仕事だったら尚更―――」
「二人きりじゃ不満だったかしら」
「へ……?」

「邪魔を入れたくなかったの」
「………」

「貴方は二人きりで食事するのが嫌だったかしら?」

責めるように訊かれ、俺は改めて冴子を見た。
胸元が大きく開いている紫のワンピースにベージュのジャケット。
冴子は元々仕事着にも色香のある女だ、これが仕事帰りそのままの格好なのか食事の為に着替えた一張羅なのか見当もつかない。
言葉と目のやり場に困り、胸元のゴールドのネックレスをただ凝視していると冴子が溜息を吐いた。

「………はぁ。」
「冴子」
「冗談よ。今回の依頼は貴方にしかできない仕事だったから。それだけ」
「……」
「このお店、素敵でしょ?」
「あ…ああ……そうだな…」
「ワインに拘るお店なのよ」
「……そいつはいいな」
「久しぶりの外食でしょ?楽しみましょう」

そう言って笑いかけた冴子は何処か寂しそうに見えた。

………分かっている。

わかっちゃいるんだ。










天気の話から始まり社会情勢、刑事時代の思い出話……
結局他愛のない話に終始した俺達は食事を終えた。結局仕事の話は一つもでないままだ。

店を出ると冴子が言った。

「ワインだけじゃ物足りないわ。少し飲みましょ」
「ああ」







次に訪れたのはこれまた会員制のバーだった。

「最近のお気に入りなの」
冴子はそう言いながら黒い重厚なドアにカードキーを差し込む。

「羽振りがいいな、公務員は」
「バカ言わないで頂戴。忙しくてお金を使える機会がないだけ」

奥から黒服の男が近づいてきた。冴子の顔を見ると恭しくお辞儀をし、何も訊かず奥へと俺達を促す。

「ありがと」

余程の常連と見た。


冴子はまるで自分の部屋の様に奥の部屋のドアを開け、黒革のソファーになだれ込んだ。
壁もソファーもテーブルも黒を基調としたシックなつくりのその部屋にはすぐに酒が運ばれる。
「ロックで良かったでしょう?」
「拒否権が無いな」
そうよ、と冴子が笑いながらグラスを持ち上げた。


「乾杯」






−*−*−*−*−








「はぁ〜、やっぱりワインよりしっくり来るわ」

ウィスキーから始まり何杯目になったか今はウオッカを呷っている冴子は、頬を上気させながら満足そうに呟いた。
全く……付き合わされる身にもなってくれ。



「冴子」
「うん?」
「お前にしちゃあ珍しいじゃないか。仕事絡みなんだろう?そこまで酔わなければ言えない依頼ってのは一体何なんだ」
「…………」

グラスの中身を一気に飲み干すと、冴子はテーブルに突っ伏した。








「おい」
「……ねぇ」

珍しく甘えた声だった。




「戻ってくるつもりは…ない?」






「突然何を言い出すんだ、冴―――」
「貴方の椅子なら用意するわ。私もあれから随分上に昇った。いつだって戻ってこられる」

突っ伏したままの冴子の表情は分からない。
これは……冗談か?

「分かっているだろう?冴子。俺はもう………」
「ある女性に人捜しを頼まれたわ」
「……」

話題がすり替わっている。
女ってのはこれだから……

「それが今回の依頼か?」
「いいえ、対象はすぐに見つかったの。」
「じゃあ―――」

「だって彼女が探していたのは香さんだったから」

「香を?どうして…」
「女性の名前は立木さゆり」
「立木?立木……あ」



その姓には聞き覚えがあった。
忘れられる筈もない。


「久石………久石純一の…?」

俺の父親が追跡し、そして事故死させてしまった犯人は久石純一といった。
久石には二人娘がいた。
会った事の無い、おそらくさゆりというその女性が姉で、いつも顔を合わせている香が…………妹だ。




今になって酒がやっと回り始めてくる。


「……っ」


黙ってしまった俺を伺うように冴子が顔を上げる。
冴子の視線で弾かれるように声が出た。

「……それで、先方は何を」
「とにかく香さんに会いたいと。そして出来ることなら」










「今の居住地、ニューヨークへ連れていきたいと」











どうする。

どうする。

どうすればいい。

何も考えられない。

何故今更。





これは酒の所為か。
思考がまとまりなく、滅茶苦茶に絡まっていく。



「……ニューヨーク……」
「香さんにも今の生活があるからと…貴方と兄妹として暮らしている事も伝えたわ。けれど―――」
「………」
「私からはもう何も言うことができなかった。だから貴方に判断して欲しいの」
「…わかった」
「明日、正午に新宿御苑。これがさゆりさんよ」

渡された一枚の写真にはロングヘアの、しとやかに微笑む女性が写っていた。

「立木さゆり……か」

彼女の微笑を見ているうちに、正常な判断能力を取り戻してきた俺はゆっくりと呟いた。


「会ってみるさ。話はそれからだな…」













「じゃあ、明日はよろしく」
「ああ」

珍しくタクシーが簡単につかまった。
タクシーのハザードランプを見つめながら冴子は言った。


「それから…さっきのあれ、忘れて頂戴」
「何の事だ?」
「戻るつもりは無いか訊いたでしょう?冗談よ、忘れて。」

よく女狐だと称される冴子だが、意外に嘘は巧くない。
第一、本当の冗談話だったなら今此処で蒸し返す事じゃあない。


ドアが開く。


「来ない?」
「ん?」
「家で飲み直さない?」
「……………冴子」

「いやぁね、そんな顔」
「え?」
「悪酔いね!やっぱり大人しく一人で帰るわ」
「あ…ああ、そうだな」

俺が反応をする間もなく話を自己完結させた冴子は颯爽とタクシーに乗り込んだ。




「じゃ」

窓を少しだけ開け、冴子が手を振る。










「…………冴子」
「なあに?」

タクシーが走り出す。

聞こえただろうか。








「俺は狡い男だよ」







手を振る冴子の綺麗に整えられた指先が、一瞬震えたように見えたのは気のせいだったのだろうか。







『仕事上の関係』
僚にも、香にもそう言ってある俺達の関係は傍から見ると奇異なモノなのかもしれない。

あの頃の俺達は、間違いなく良きパートナーであり、
良き親友であり、
良き同僚でもあり、
良き――――――――…








多分。
あのまま刑事を続けていたのなら、俺達の関係は今とは全く別のものになっただろう。
それは色恋に鈍感な俺でさえ分かる。
だが今の俺は裏でしか生きられない。それで防げる悪がごまんとある事に気づいたからだ。





「……いかんな」




手を挙げるがタクシーは素通りばかりだ。
途中まで一緒に乗っていけば良かった、と後悔するがもう遅い。仕方なく俺は歩き始める。




「俺は…僚の気持ちが解るようになってきたかな」




僚とのパートナー関係も、
香との兄妹関係も、
冴子との切っても切れぬ関係も。

このまま何ひとつ変わらなければいいのにな、と願う俺は

世界で一番狡い人間なのかもしれない。














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