誠実に生きようとすればするほど、迷いは確実に増えていく。誠実でありたいからこそ、なんだが。

ゆらゆら、ゆらゆらと。

強い思いは時にぐらつき、集散し、そして

最期はどうなるんだろうか。

 

 

 

 

高塚秀司の担当看護師だった岩井善美をガードせよ。

そんな依頼を受けたのだが、さて対象者本人に気付かれずガードする方法はとなった時、依頼人の顧問弁護士は検査入院の提案をしてきた。

「じゃ、そっちは槇ちゃんに任せるとして」

そして僚が言ったのだ。

「香、お前も手伝え」

「オーケー!何すればいいの?」

「いや待て僚!香に何をさせる気だ」

「まぁ黙って聞けって。香」

「何?」

「お前、一応女だったな」

 

・・・・・・

 

「一応じゃなくれっきとした女だ!」

「間違った、一応看護師よな」

「どこをどう間違ったかしらないけどそうだよ!」

後頭部に小さいハンマーを投げつけられた僚が頭をさすりながら言った。

「だからぁ、新米ナースって事で潜入して善美ちゃんに近づくってのはどうかなぁって話」

「ああ!」

いいねやるよ、と香が腕をまくった。

「僚、それは危険じゃ…」

「だぁいじょうぶ!善美ちゃんに何かあった時の連絡役だ、それ以上の事はさせないさ。それに」

「それに?」

「―――いや、何でもない」

 

 

 

 

 

-*-*-*-*-

 

 

 

 

佐々木総合病院は悪い評判も殆ど無い、老若男女が訪れる地域密着型の病院だ。

初めは大富豪の高塚がなぜこんな一般の病院を選んだのかと思ったが、高塚グループの息がかかっているらしく香の潜入が簡単に許されてしまった事で納得した。

 

入院患者用のパジャマに着替えて談話室へ向かうと早速僚には笑われた。

「ぶはっ!槇ちゃん患者役似合いすぎ」

「…ところで香は」

「アーニキ」

声のした方を振り返る。

そこにはナース服に身を包んだ香の姿。

 

「教授のところも仕事中は普段着にエプロンか白衣を羽織るだけだしさ、一回病院で本物着てみたかったんだよね!」

ラッキー、と香は嬉しそうに笑いながらくるくると回る。

丸襟に膝丈ワンピースのオーソドックスな白衣。

「どうよ、僚」

「へぇ、馬子にも衣装ってやつか」

「失礼な!あたしゃなんでも似合うの!」

「黙ってればもっこりナースちゃんに見えない事もないぜ」

「ひ、一言余計だバーカ!ね?アニキ」

呼ばれたことには気づいたが、口を開くことがなかなかできない。

「ちょっと…アニキ?」

 

 

 

さっき僚が言いかけたのはこれだったのか。

 

(それに 見たいだろ?妹の晴れ姿。)

 

ああ、見たかったんだ。ずっと。

 

 

 

赤子だった香の小さな指を掴みながら、この子は将来どんな子になるのだろうと。

妹の晴れ姿を見るまでは死んでたまるかと、何度思った事か。

俺は――――

 

「アニキ、何で泣いてるのよ!」

「俺は…俺は…本当に…ぅ…」

 

戴帽式の集合写真を見せてくれた事はあったが写真嫌いの香はそれ以外を持ってきたことがない。

そのまま教授宅にお世話になった香が表の世界で生きる姿(偽物だが)を、まさか此処で見られるとは思っていなかった。

ぅおおおおん、とまるでマンガの様な嗚咽が漏れる。

ハンカチどころかタオルまでビショビショだ。

 

「ダメだこりゃ」

僚はそう呟くが、いったい誰の所為だと思っているんだ。

 

 

 

 

 

 

-*-*-*-*-

 

 

 

 

 

 

検査入院という名目で4人部屋に案内されるとベッドは既に3つが埋まっていて、空いていたのは窓際だった。

これなら外も見渡せるし好都合だ。

 

「何、どうしたんだいあんちゃんは」

早速隣のベッドで競馬新聞を読んでいた気のよさそうな初老男性に声をかけられ

「最近調子が悪くて…癌の疑いがあるからと検査入院を」

「そうかそうか、なんともねぇよ、大丈夫だ」

俺なんかなぁ、の一言にこりゃあ長くなるぞと覚悟した時だった。

 

「検温でーす」

ベテランの風格を感じさせる看護師の後ろからついてきた香は、俺と目が合うと照れ笑いを浮かべた。

「お、見ない顔だな姉ちゃん」

早速隣の男が声をかける。

「新米看護師の槇む…じゃなかった、槇野で~す」

みなさんよろしくお願いします、と香が頭を下げると向かいの間仕切りカーテンが勢いよく開く。

「俺タカハシ!よろしくねマキノちゃん!」

「何だおめぇ、かわいこちゃんには目がねぇな!」

隣の男にそうからかわれてもタカハシと名乗った男は気を悪くするでもなく香に視線を送っている。

……これは要注意かもしれないな。

残るは一人、白髪頭の老人はいびきをかきながら眠っている。

「相変わらずこっちは寝てばっかりだしよぉ。耳が遠いんだよこのじいさん」

「はあ」

この中ならば競馬新聞の男が一番情報を持っていそうだ。

…それにしても。

 

「タカハシさん、点滴替えますね」

「えーマキノちゃん替えてくれんのラッキー」

「あら槇野さん、手際良いわね、優秀よ」

「先輩ありがとうございまーす」

「じゃあ槇村さんは血圧測り―――ま、槇村さん!?」

「バっ、アニ…じゃなかった槇村さん、どこか痛みますか!」

 

妹の仕事ぶりをこんな間近で、しかも褒められているところを見られるだなんて…

胸がいっぱいで涙が止まらない。

香が

『バカ、泣きやめってばアニキ』

小さい声で背中を小突くがどうしても止まらないんだ、勘弁してくれ今だけは。

 

 

 

 

 

 

 

「もう、何やってんだよバカアニキ!」

「すまん、つい…」

 

『入院で気が滅入っているのね、外の空気吸いましょう!』

そう言って無理やり俺を病室から引きずり出した香は、使用していない個室に入るなり鬼の形相で腕を組んだ。

 

「マジメにやってよね、仕事なんだから!」

「……お前、やけに張り切っているな」

「え?ああ」

香は表情を一変させ、俯き加減で呟いた。

「僚が初めて仕事任せてくれたから…嬉しくてさ」

 

『心が決めたパートナー』

あの日、僚はそう言った。

あれから香の機嫌はすこぶる良好で、それに呼応するように僚の露骨な美女漁りは減った………ような気がする。

そこへ飛び込んで来たこの依頼。

このチームワークがあれば簡単に事件は解決するような気がしてきた。

 

「ところで岩井善美は?」

「まだ。今日は夜勤入りだから、そこから私の指導係に入るんだって」

「まあ何だ、しっかり指導してもらうんだな」

「勿論!こんな機会めったにないしね」

楽しむ事にするわ、と香が笑う。

 

―――――こんな機会、か。

 

表の世界で真っ当に生きていれば、こんな機会いくらでもあっただろうに。

せっかく僚が俺達と生きる事を選んでくれたってのに、香の些細な一言で気持ちが揺れる自分が情けない。

 

「なあ、香」

「…シッ!」

突然香が人差し指を唇に当て、ドアに耳を当てた。

「?」

「…来たわね」

何が、と訊こうとして気が付いた。

若い女らしき叫び声が上がり

「きゃあ~!チカンよ!」

「変態がわたしのお尻を触っていった!」

「そっち逃げた、捕まえて!」

騒ぎがどんどん近づいてくる。

 

ドタドタドタ…

 

「えーい、何をやっとるんじゃお前は!」

部屋の前を走り去ろうとした足音。

ドアを開け、人影を誰なのかも確認しないまま思い切り引きずり込んでそのまま床に引き倒す。

「おげっ!」

「この変態もっこり男!」

「はは、二人ともココにいたのね…」

汗を拭く僚の手にはハンカチではなく女性の下着があった。

軽蔑の眼差しで僚を見下ろす香は冷たく言い放つ。

「善美さんならまだよ」

「あら残念」

「僚、お前の方は何か分かったか」

「ああ。善美ちゃんはロッカーに下着の替えを置かない主義だ」

「おまえは更衣室で何してきたんじゃ!」

「なはははは、冗談はおいといてぇ」

(どこが冗談だ)

俺も香も同じ目をしていただろう、視線を感じた僚が空笑いをする。

 

「ま、とにかく。意外と早く終わるかもしれないぜこの件」

「何か掴めたのか」

「善美ちゃんのアパートを張ってたら怪しいのを見つけたもんでね、ちょっと尾行してきたの」

「えーっ、もう終わり?もうちょっと潜入捜査したかったなぁ」

「ハハ、香ちゃん何ならトラバーユしちゃう?」

「冗っ談!大病院勤務なんて激務になったら誰があんたとアニキの面倒見るってのよ」

「………香」

「ま、オカマがナース服着てるって噂になったら病院も大変だからな」

「おまえはまだ言うか~!」

「ぐ、ぐるじぃ香ちゃん…!」

コブラツイストをきめると握っていたパンティーがはらりと落ちた。

「返してくるわ」

「しょんなぁ、香サマ!」

「ふん!」

 

香が出ていくと僚は懐からクリーム色のブラジャーを取り出した。

 

「僚、お前―――」

「あっれえ?ブラちゃんったら間違えて入っちゃったのかな~」

「そっちの話じゃあない。お前、この期に及んで何を試しているんだ」

「さて何の話だか」

「とぼけるな、さっきの一言だ。俺も香も、表の世界に未練は無い。探りを入れるような真似はやめてくれ」

「……」

とぼけた顔をした僚がポケットからパンストを取り出した。

「香だって、お前に仕事を任せてもらえたと張り切っていたよ。それが全てだ」

「お前自身の先に未練はなくとも、お前が思う香の将来に未練はあるんだろ?」

「   」

「俺もそれが全てさ」

「僚…」

「そりゃあ迷いもするさ。俺なんかに付き合ってないで、幸せになってほしいわけよ相棒」

真面目な顔と台詞とは裏腹に、装填さながらクリーム色のブラジャーをパンストの中に丁寧に詰め込み、さらにもう一方のポケットからパンティを数枚取り出すとこれまたパンストの中に詰め込んでいく。

「都合の悪い一生のパートナーだと言われた筈なんだが」

「それも本音さ。要はお前の匙加減って事!去る者は追わないからそん時ゃ安心しな」

「誰が去るものか」

「槇ちゃん、人の気持ちって結構簡単に変わるもんよ?」

「お前が変わりすぎなんだよ僚。いちいち揺らがないでくれ。こっちにまで伝染しちまうんだ」

「フッ、悪かっ―――――――」

 

バン!

 

「やっぱり隠し持ってたかこのもっこり大将め!」

「か、香ぃ!?」

「下着がまだ足りないって大騒ぎになってんだぞバカ!出せ、全部出せ~!」

勢いよくドアを開けた香が取り上げたパンストで僚の首を締め上げる。

「ゔぉえ……ギブ、ギブ!」

 

 

揺らがぬはわが妹だけか。

その時俺はそう思っていたのだが、やがて僚の言葉を痛感する事になる。

 

 

 

 

『人の気持ちって結構簡単に変わるもんよ』


 

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