「槇ちゃん、これ。」
「何だ?」
それは早朝の出来事だった。
「香ちゃんの就職祝い。」
珍しく早起きしたらしい僚が、小さな何かを放った。
香に朝早くからたたき起こされる事はあれども、アイツが自ら進んで起きる事なんかそう滅多にない。
今日は雨に違いない。そう思いながらもとにかく俺は
「おい」
慌てつつ、何とか右手でそれをキャッチした。
掌を開くと其処にはボタンが一つ。
「それ、香ちゃんの服に付けておきな。」
「これは・・・?」
「発信器。」
「んな・・・っ、」
「あれば便利だろ。盗聴器も何個かあるから好きなだけ持っていけよ。」
「バカ言うな!こっちが便利だろうと何だろうと・・・香にだってプライバシーってモンがある!」
「プライバシー、ねぇ。」
僚はそう呟くと口を閉ざしてしまった。
まずったな、とは思った。
僚のコレはプライベートを踏みにじろうとか香をどうこうしようとか、そういった類のモノでは全くないのだから。
「・・・すまない、僚。」
「そう思ったんならコーヒー頼むわ。」
「僚・・・」
「あ、お前のは豆をケチるから薄いんだよなぁ。全く貧乏性なのな。」
いつも通りの口調。
「働きによっちゃ濃くもするさ。」
少しだけ安堵しながら軽口を返してやる。
「お前が男の依頼しか持ってこないのが悪い!」
「偶然男の依頼が続いただけさ。」
「ウソ臭ぇの。ずぇっっったいもっこりちゃんの依頼断ってるだろお前!」
「いや、神に誓ってそれは無い。」
「信用できんな。よし、今度は俺もついていく!」
「ああ、好きにしろ。」
TRRRRRR・・・・
「あ、俺だな」
いつもなら進んで取ることのない電話。子機を掴むと僚はリビングを出ていった。
俺は俺でリビングを出るとキッチンへ移動した。
メイカーに手を掛けると何故だか溜め息が漏れた。
「・・・・はあ。」
僚は他人に何かを強要するという事がない。むしろそうしてくれた方がどんなに楽かと思った事もしばしば、だ。
さっきだってそうだ。アイツは一つも間違った事を言っちゃいない。
この世界で生きていくからにはあらゆる予防線が必要だ。
シティーハンターに狙いを付けるヤツらに「妹は関係ありません 狙わないでください」なんて頼み事がまさか通じる筈もない。
――――――間違っているのは俺だ。
「それでもなぁ・・・・・」
「何?どうしたのアニキ。」
「わっ!」
思わず大きく飛び退くと、背後には香がいた。
「か、っっ」
「?」
「香、いつからそこに!?」
「へ?たった今だよ。変なアニキ。」
香が首を傾げながら俺を不思議そうに見ている。
どうやらリビングでの話は立ち聞きされたりしていないらしい。
「それより朝食作らなくちゃね。」
「あ、ああ。丁度何にしようかと・・・」
「昨日はトーストだったから今日は和食にしようよ、手伝う。」
「ああ、すまないな。」
「いいよ、どうせアニキより料理の腕はいいんだし?」
「言ったな?この」
「へっへ〜。それよりアニキ、それって僚に?」
「ん?ああ」
そういえばメイカーに手を掛けっぱなしだった事に気付く。
「あーダメダメ。アイツって見かけに寄らず舌が肥えてるからコーヒーメイカーで入れたら文句言われるわよ。」
「コーヒーの一杯や二杯・・・」
「アタシやる。アニキは先に朝食お願いね。」
「あ、ああ・・・」
返事をしながらいつものピンクのエプロンを掴んだ。
「・・・・・」
香をチラリと見やる。
「アイツ、豆をケチるとすぐ気付くんだよね・・・よし、今日はブルマン」
ブツブツ言いながらも楽しそうにアンティークのミルを取り出し、豆を挽き始めた香。
僚、お前は幸せ者だぞ。
「・・・何?じーっと見ちゃったりして」
「あ、いや・・・」
「おーい、コーヒーまだか?」
僚が子機片手にキッチンへ入ってきた。
「今からだよ!」
「お、香ちゃんがいれてくれんのね。」
「何だよ、不満?」
「うんにゃ、槇ちゃんみたいに豆をケチらないから大歓迎。」
「じゃあ黙って待ってろよ。」
「なるべく早くな。」
「どうかしたのか?」
僚が俺を見てニヤリと笑う。
「内定先からお呼び。」
朝食もそこそこに俺達はアパートを出た。
流石に昨日の今日で「シティーハンターのアシスタント」が務まる筈がない。どうにか香を説得した俺達は、香が納得する進路を幾つか用意した。
就職先は、僚の斡旋。
俺も其処へは何度か足を運んだ事がある。
教授と呼ばれる老人宅だ。
彼がただの老人ではない事は判っている。それでもまともな就職先だと思った。
「お邪魔します、教授。」
「おお、来たかの。」
「お世話になります。」
敬語を使う見慣れない僚を、香がギョッとした顔で凝視する。
「……アンタ」
「あ?」
「そんな言葉も使えたんだ…」
「俺を何だと思ってるんだよ。」
「だって常識ないからさあ…」
「るへっ!」
「おい、香…!」
「ケツの青い香ちゃんに言われたかないね〜」
「なにを!」
案の定始まってしまった子供の様な言い合いに慌てて止めに入る。
「フォッフォッフォ。勇ましいお嬢さんじゃの。この子が君の?」
「はい、『妹』です。」
聞かれる前に強調し、香を紹介した。
「ホラ香、挨拶」
「あ?ああ」
肘で小突くと慌てて香が姿勢を正す。
「初めまして、槇村香です。」
「フムフム」
「・・・?」
「合格じゃ。」
「え?きゃああッ!」
「まだまだ成長途中・・・しかし将来有望じゃな。」
「き、教授!」
香の尻をさすりながら教授が満足そうに頷いている。
「何しやがるこのスケベジジイ!」
・・・遅かった。
ハンマーが見事に教授を押し潰した。
「つ・・・強さも申し分ないのう・・・」
−*−*−*−
「アタシ本当に此処に就職するの?」
「不満か?」
教授の後に僚、それから俺と香が並んで歩く。
「だって医療施設って聞いてたから・・・」
「まあそんなモンだ。」
「どこがだよ!小金持ちの爺さんが老後の道楽で建てた様なただの日本家屋じゃないか!しかも当の爺さんはスケベだし」
「香・・・聞こえるぞ。」
「あ」
「フォッフォッフォ。違いないわ。」
笑いながら教授が後ろを振り向いた。
「香君に働いて貰う場所は此処じゃ。」
教授が開けた障子の向こうには診察室そのものがあった。
普通と違うと言えば其処は畳だという事。
「奥には手術室もある。そんじょそこらの医療施設よかよっぽど役に立つぜ?」
僚が我が家のように施設を自慢した。
「へェ・・・」
香は心底感心した様子で部屋中を見回している。
「これでも不満かの?」
「でも・・・」
香は顔を曇らせ、俺と僚を見比べた。
・・・解っている。香の言いたい事は。
どうしたものかと僚を見る。
視線に気付いてか気付かずか、こちらを見ようとはしないままアイツは話し始めた。
「俺達みたいな商売している人間はな、こういうトコロがすごく大事なワケ。どうしてだか解るか?」
「血の色が普通じゃないから病院行けないとか?」
「あのなぁ・・・人がマジメに―――」
「ハハ、ゴメンゴメン。で?何で?」
「銃創なんか病院で見てもらえば当然一発で警察行きさ。それから薬は薬でもこわーいクスリなんかも此処で調べりゃ一発だ。教授は裏世界の情報にも精通している。だからこういう場所が必要なの。」
「こういう場所・・・」
「ちなみに槇ちゃんもユニオンに手痛くやられた時は此処にお世話になったワケ。」
「!」
香の顔色が一瞬で変わる。
「僚」
「事実だ。だからお前も俺達の役に立ちたいなら・・・いや、共に生きる覚悟があるのなら、今持っている技術を最大限に活かすべきだ。此処で全てを学べ。」
「僚・・・」
香が決心したように頷く。
「よし、いい子だ。」
−*−*−*−
改めて気付いた事がある。
シティーハンターとしてパートナーを組んでもう長いこと経つが、未だ『冴羽僚』の正体を掴み切れていないという現実。
それでもアイツは感情が剥き出るようになってきたんだがな。最近は特に。
会った頃のアイツは何て言うか・・・何者をも寄せ付けない殺気と死臭で覆われていた様な気がする。
刑事だったあの頃は、それが許せなくて堪らなかった。
それがどうだ?今では仲良く共同生活。
人生何が起こるか判らないと心底思う。
アイツはヘラヘラした表面とは裏腹に、心の奥底には誰も踏み込ませようとはしない。
溶かしたい。
何時か何処かで凍らせてしまったであろう、その心を。
そう思ったのは何時だったか。
なあ、僚。
俺は溶かせているのか?
お前の心を。
「僚」
「あァ?」
女の裸ばかりが載った雑誌を取り上げると、僚は不機嫌な声を出して俺を睨んだ。
「お前も見たいなら一言言えよ。部屋にもっとあるぜ」
「違う。」
「今朝の話なんだがな」
ソファーに腰掛け、僚を真っ正面から見据える。
「発信器、貰えないか?」
「・・・・・」
「俺が間違っていたよ。」
素直に言えた事に安堵しつつ気恥ずかしさに視線を逸らす。
「『共に生きる』か。いい言葉だよ。」
「槇村・・・・」
『共に生きる覚悟があるのなら、今持っている技術を最大限に活かすべきだ。此処で全てを学べ。』
僚は昼間、そう言ってくれた。
元々一匹狼気質で、群れる事を好まない男のくせに。
素人に毛の生えた程度の俺と、正に素人の香に『共に生きる』と。
僚。
共に生きる覚悟があるから、今起こりうるあらゆる事態を考えたんだ。
やはり俺は間違っている。
「言う時は遠慮せず言ってくれ、相棒。」
「・・・」
何だよその面食らった顔は。
「信頼しているんだ、頼むよ。」
「あ、のなあ」
少しだけ顔を赤らめた僚が体を起こす。
「頑固なヤツにゃ何言っても通じないだろうが。」
「ハハ、これからは柔軟性を持つように努力するさ。」
「それに良く考えたら可愛い妹が誘拐されて居所が判らないとなっては俺の身が保たないからな。」
「可愛い?あの暴力女のどこがだよ!弟の間違いだっての!」
「香は可愛い妹だ。」
「訂正しろ、『俺の妹は実は豊胸手術したての逞しい弟です』ってな!」
「誰が弟だって・・・?」
「ぎくう!」
「か、香!」
いつの間にかスイーパーの後ろを取っていた香に、素質があるんじゃないかと思ってしまった。
いや、そういう問題じゃなくて・・・
「いつからお前・・・」
「『あの暴力女のどこがだよ』の辺りだ!」
「ぎゃあああ〜っ!」
なあ、僚。自惚れてもいいか?
溶かせているよな、お前の心。