「……遅いな。」
テーブルに出したコーンポタージュが薄い膜を作る。大分冷めてきた。
「僚、香を―――」
「いや、今はまずい。」
言いかけた俺を制した僚は何故か朝刊を握りしめ、拳を震わせている。
「?」
「様子がおかしい。」
「香がか?じゃあ尚更―――」
「待て槇村」
珍しく真面目な声音で俺を呼んだ僚は朝刊を置くと俺に座れと目で合図を送る。
仕方ない。
俺は向かい合って座ると
「何があった?」
僚に尋ねた。
「……今のアイツを見たらお前はまた卒倒するかもしれん。」
「……?」
「解るか槇村?今俺達はひっじょ〜に恐ろしい体験をしようとしているのだよ。気付け薬を用意した方がいい、うむ。」
「話が読めん。詳しく説明しろ、僚。香はどこだ」
「洗面所だ。そこで事件は起こっている!」
「……お前には付き合ってられん。」
まるでラチがあかない。
嘆息して席を立つと
「俺ぁ知らんもんね!」
僚がそう言ってトーストに齧り付いた。
全くワケが分からない。
とにかく知り合いの元だろうが何だろうが、どんな職場であろうとも遅刻はいただけない。
俺は香を呼びに行く事にした。
洗面所のドアは閉め切ってはおらず、僅かに隙間がある。そこから覗く香の後ろ姿。
それは
「………」
鏡に向かってああでもない、こうでもないとポーズを取る香。
しかも何だそのミニスカートは。
香がスカートを。
「……嘘だろ」
「誰!?」
しまった。
香がバッと振り向き、そして顔を真っ赤にして手元にあったブラシを投げつける。
「だ、ッ!」
スコン、と気持ちの良い音。
物を投げつける癖のある妹を持てば長年培った勘で大抵の物は避けれるのだが、今日はそう上手くいかなかった。それほどまでに俺は動揺している。
「あ、アニキ!いつからそこにいたんだよ!?」
「いや、悪い、朝飯が出来たから――――」
「わ、わかったよ!今行くから!」
「あ、ああ…遅刻するから早めにした方が…」
「わーったよ!早く行けよバカアニキ!」
何で俺は罵倒されなければならないんだ。そんな疑問を抱く前に俺は踵を返した。
また何か投げつけられたとしてもそれを避ける余裕はない、今は。
「な?恐ろしい体験だったろ?」
僚が3枚目のトーストに手を伸ばしながら言った。
「…見たんだな、あれを。」
しかも目の前の僚は無傷だ。無言で巧い具合に立ち去ったのだろう。
僚は時々(いや、いつもか)余計な所で裏稼業の才能を発揮している。
「ついに香ちゃんも歌舞伎町デビュー?」
「…いいか、それを絶対香の前で言うなよ?死にたくなければ。」
「当然だ、俺も命は惜しい。」
ガチャ。
唐突にドアが開き僚と二人、同時にビクリと跳ねた。
「…おはよう」
香がテーブルにつく。
「……」
気まずそうな表情で。
よく見れば目にはブルーのアイシャドウ。唇には真っ赤なルージュ。
「ぶほっ」
「僚!」
僚の含んだコーヒーが全部口から吹き出てくる。慌てて止めたが時既に遅し。
「何だぁお前、仮装大会か!?それともやっぱり歌舞伎町デビュー―――――」
………忠告はした筈だぞ。
アパートが大きく揺れた。
地震ではない、念のため。
−*−*−*−
「ついてこないでよ」
「仕方ないだろう、俺達も今日はここに用事があるんだ」
またたく間に教授宅。
香の後ろには俺と僚が続く。
「おはようございます…」
「かっずえちゃ〜ん♪」
僚が香を押しのけて前に出ると、白衣を着た女目がけて突っ走る。
「おい、りょ――――」
俺が呼び止めるよりも早くハンマーが飛び、僚の後頭部に激突した。
「やめんか見苦しい!」
名取かずえ。
俺達が喜多川産業の追っ手から匿ったその女は免疫学者だった。
ヤツらの悪事を暴くには十分すぎるほどの証人だ。
殺された恋人の無念を晴らすため単身喜多川産業に潜り込みバカ息子を誘惑し、結婚までこぎつけたそうだ。
そしてデータ奪取。ついでに解毒薬のアンプルを数本。
これだけ物的証拠があれば捜査令状も取りやすい。冴子は直ぐに動いた。
お陰で事件は早々に片づいた。が。
何もかもを失ってしまった彼女は教授の厚意によって此処で世話になる事が決まった。
元々が免疫学者だ、即戦力になる事は間違いない。
おまけに美女だ、教授ばかりではなく僚までもが鼻の下を伸ばして歓迎した。
面白くないのは香だ。
「あら、香さん今日はとっても素敵」
名取かずえはそう言って香を見て微笑んだ。
「脚が長いからミニスカートが良く似合うわ。羨ましい。」
「……そりゃどーも!」
「香」
ぷい、とそっぽを向いて香は一人、奥へと入ってしまった。
「私、嫌われているみたいね。」
名取かずえは苦笑しながら俺を見る。
申し訳ない、と俺は頭を下げた。
「いいの、理由は何となく分かっているから。」
「はあ……」
「可愛い妹さんね。」
彼女はそう言うと香の消えた部屋に向かった。
−*−*−*−
数分後、冴子も現れた事で香の不機嫌度が急激に増した。おそらく沸点ギリギリだ。
「情報提供、感謝しますわ。」
「いやいや、お前さんのような別嬪さんに頼まれるとのう……」
さわさわと冴子の尻を触った教授は、手にナイフが刺さろうとした瞬間に手を引っ込めて焦り笑いをした。
僚は僚で皆にお茶を出す名取かずえの太股に手を伸ばし、香に茶をかけられた。ちなみに煎茶の適温は70度以上だ。
「じゃあかずえ君、昨日のデータを」
「はい」
「ああ、それからこれをコピーしてきてくれるかの」
「コピーならアタシ行きます」
香は立ち上がると教授の持っていた書類を奪い、返事を待たずに奥へと消えてしまった。
「……かずえ君、香君に3枚と伝えてくれんかの。カラーで。」
「はい」
クス、と彼女は笑うと香の後を追う。
ずず……教授がお茶を啜る。今にも大声で笑い出しそうな表情だ。
『香さん、さっきの書類だけど…』
『ほっといてください!これ位できますから!』
『あの、3ま……』
『こんのォ、バカコピー機め、動けェ〜!』
ゴン!
『ああっ、香さんそれは電源が――――』
『ポンコツ機械ね全く!』
『違うのよ、そこの電げ……』
『こうしてやる〜!』
ズ…………ン…。
ズズズズズ…
誰かしらともなく、不自然に煎茶を啜る音。
「…いい仕事っぷりだこと。」
「…………」
僚の嫌みに何も言えず、俺は煎茶を啜り続けた。
−*−*−*−
「夕飯は?」
「無い。」
「まーだ落ち込んでんの?香ちゃん」
「無理もないさ。」
あれから香はコピー機を一台壊し、重要書類をシュレッダーにかけた。
どこをどうやったらそんな惨事が起こるのだ、とそこにいた皆が思ったが、とにかく香は大仕事をしてしまった。
まあ書類はバックアップもある事だし、事なきを得たが香は大分ショックを受けたようで帰るなり自室に閉じこもってしまった。
「初めてに失敗は付き物だろう、なぁ?」
「違いない。」
「俺だって初もっこりの時はだなぁ…」
「行ってくる」
「聞いてくれないのね槇ちゃん…」
「誰が好きこのんでお前の初体験の話を聞くんだ。」
「ハハ……でもま、あれでいいんだがね、アイツは。」
「………僚」
「それこそ初体験だ。」
「何がだ?」
「教授だよ。香を見て笑っていた。」
「彼はいつでもそうじゃないか。怒っている所を見たことがない。」
「腹の底から愉しそうに笑うあの人を見たのは初めてだったよ、俺ぁ。」
「………」
「香」ドアをノックすると
「何よ」
と不機嫌そうな声。
「入ってもいいか」
「……いいよ」
少しの間があったが、香が承諾した。
部屋に入ってみれば香は椅子にどっかり腰掛けて、沈む夕陽をじーっと眺めている。ミニスカートはいつの間にか履き慣れたジーンズに変わっていた。
「悔しかったんだ。」
不意に香が口を開く。
「……?」
「アニキが…アタシには入れない世界で生きているんだなー、って思ったら。」
「香……」
「僚も冴子さんも教授もかずえさんも…みんな出来て解る事がアタシにだけわかんなくて…役に立たなくて…みんながアタシだけ置いてどっかに行っちゃいそうで…」
「香、まあ…」
こんな時、兄として…いや、人生の先輩として何と声を掛けたらいいのだろうか。
刑事だった頃は何かとアドバイスを求められて、それなりの答えを導き出してやったものなんだが。
「色々あるとは思うが、その…なんだ」
「アニキは冴子さんが好きなの?」
「へ…ぁ!?」
思いも寄らなかった問いかけに、素っ頓狂な声が出てしまった。
「……な、何を唐突に…」
「やっぱり好きなんだ?」
「え、う、た……」
まるで言葉にならない。
「確かに冴子は女として…だがな、あのな…」
「男の人ってやっぱりあんな美人が好きなんだ?綺麗だもんね、冴子さん」
「いや、待て香……」
「僚は僚でかずえさんにちょっかい出してるし。アタシにはもっこりなんかしないくせに!」
「香?」
「……!」
あ、と香は口を抑え頬を赤らめた。
「ち、違うからなアニキ!アタシ別に…違うからな!」
「あ…ああ…」
今のは…何だ?
……まぁ、とりあえず香が元気になったようなら今はよしとするか。(疑問と不安は多少残るが)
「香はまず言葉遣いからだな。」
「あ〜、言ったなアニキ!」
「ハハ、さあ夕飯にしよう。僚が餓死するかもしれんぞ。」
「死んで上等だあんなもっこり男!」
「おいおい香」
「はいはい、わかってますわよお兄様♪」
香。焦らなくとも俺はお前の前から消えたりはしない。仕事だってお前ならすぐに何だってできるようにはなるさ。
そしていつかお前もいつか綺麗に花開く。
だから今のままのお前でいればいいんだ。
なあ?香。
「あーっ、何よこれ!」
「おー、遅いぞ香。何か作ってくれよォ」
「腹減ったからって冷蔵庫の中を派手に物色するんじゃな〜い!」
ド――――――……ン。
今のままで………いい、
……かもしれない。