降り出した雨に辟易しながら階段をのぼる。
数時間後には冴子が来る筈だ。一旦着替えるか。




「ただいま」

アパートに帰ると香の姿は無かった。休日にもかかわらず、だ。
香の部屋をノックするも返事はない。



「……」



ふと、ベランダに目がいく。
雨を含んでひたひたと水の滴る洗濯物。
「香のやつ、何処へ行ったんだ?」
仕方ない。俺のシャツや靴下と一緒に、香の下着類も干してあるがここは我慢してもらおう。

ドアを開け、洗濯物に手を伸ばそうとしたその時だった。





「 ○ ▲ ◇ / * 〜 ! ? 」






「たっだいま……って、何してんの槇ちゃん」
「………」

返す言葉も浮かんで来ない。
浮かんだとしても口には出せない。口どころか全身が痺れている。

「ぅ……ァ…あ…」
「あら〜、見事なトラップ」
ドアの前に落ちていたピアノ線を摘み上げながら僚が口笛を吹いた。

「と…ラップ……?」
「そ。ベランダに行こうとするとこうなるみたいね」
「一体何の必要があって……」



ハッ。



「香!まさか香に何か……」
「慌てるなよ槇ちゃん」
「そうだ、香がいない。捜しに―――」
「落ち着けよ槇村。まだアイツに何かあったと決まったワケじゃなかろうに」
「何処だ、香は何処だ!?」
「落ち着けっての。心当たりならあるぜ」











−*−*−*−*−











僚の言う心当たりとは、cat's eye。

「…此処はファルコンの」
「最近入り浸ってるみたいよ?」
「……」

知らなかった。


「何で―――」
「ま、入ってみりゃ分かるって」






「あれ、どうしたのアニキ」

カウベルの音にまず女主人の美樹さんが顔を上げ、それからカウンターで彼女と向かい合っていた香が振り返る。

「いらっしゃい、秀幸さん」

女主人である彼女は俺を名前で呼ぶ事にしたらしい。
顔色が良くないわね、と言いながら水を出してくれた。

「コーヒー?」
「あ……いや…」
「?」
「ああ…その……コーヒーで」

香に用事があるだけであって、悠長にコーヒーなんか飲んでいるヒマはない。
だがそんな事を言うのも失礼だ。
俺は少しどもりながら香の隣に腰掛けた。


「美っ樹ちゅわ〜ん!僚ちゃんも来ましたよ――――」

パン、ゴン、と立て続けに衝撃音が響く。
トレイとカウンターチェアの連続技で僚がフロアに沈み、美樹さんと香が
「来なくて結構!」
と声を揃えた。

「もう、仕方ない人ね!」
「はは…しーましぇん」

僚は顔をさすりながらタコ坊主は?と訊いた。
「先に行くって言ってたわ」
「そうか」
「もう行くの?何か飲んでいかない?」
「じゃあ水を一杯。それから美樹ちゅわんも―――」

パン、ゴン。
さっき聴いたばかりの衝撃音と共に再び僚がフロアに沈んだ。
「早く行けっちゅーに」
香が低い声で凄んだ。










「ところで美樹さん、さっきの続きなんだけど」
香は俺や僚におかまいなしでカウンターから身を乗り出すようにして美樹さんに話しかける。

「やってみたんだけどうまく行かないのよ」
「あら、ちゃんと調節したの?火薬の量」
「か、火薬ぅ!?」


ガタン!

思わず俺は立ち上がる。


「な、何の話なんだ香!」
「何って…トラップよ」
「トラップ!?お前、まさかベランダのあれは―――」
「あ、ちゃんと放電した?」
「放電…お前…」

嬉しそうに香が訊いてくる。

「秀幸さん、優秀なのよ彼女」
「美樹さん!」
「あら、何?」
「香に危ない事を教えてもらっては困る!」

彼女は呆気に取られた表情を浮かべ、それから少しすると笑い出した。

「あら、教えたのはファルコンよ」
「ファルコン!彼が!?」
「私は適時アドバイスをしてあげているだけ。それにこの世界では知っておいた方が賢明よ?」
「だが…だからと言って家にまで……」
「私は子供の頃から、ファルコンに生きるための術を習ったわ。銃の扱い方も。」
「君と香は違う」
「確かに違うわ。でもファルコンがそれらを教えてくれたからこそ、私は今此処で生きていられるの。」
「…………」

美樹さんの言う事は一理ある。だがそんな危険な真似を第三者から教え込んで欲しくない。
言葉に詰まった俺に、香がとんでもない事を言いだした。

「落ち着いてよアニキ。僚が下着ドロボウさえしなけりゃトラップも作動しないんだから」
「……………何?」

「だから、僚が最近下着ドロボーするの!防衛策を相談したら海坊主さんがトラップを教えてくれたのよ!」
「だがまだまだだな。お前の部屋のタンスと風呂場のトラップは甘かったぜ」
「何ですって!?」
「待て僚、ちょっと話がある」
「だーってえ、最近香ちゃんのブラちゃんったら刺激的なんだも〜ん」
「ちょっ…僚!」
「それに香にはもっこりしなくても香の下着ちゃん達には罪が無いワケだしィ………っ待てむァきむらっ!?」




自然に指が懐に入っていく。
取り出したコルトローマンの引き金を引く。
僚に向かって発砲したのはこれが初めてだ。

「お前と言うヤツは…!」
「んまっ、槇村!ジョークだっての!」
「アニキ、そこまでしなくても…!」

美樹さんに羽交い締めにされ、2発目は撃つ事ができなかった。
流石は元・女傭兵。全く身動きを取る事ができない。


「んもう、冴羽さん!早く行くなら行きなさいっ!」
僚がその隙に店を出た。

「僚!待てっ!」












−*−*−*−*−















「アパートにいなかったからこっちに来たの」
「…そうか」
「大分、荒れたみたいね」
「お陰様でな」
「……」


隣に座った女はふぅ、と大袈裟に溜息を吐いた。冴子だ。

「妹さんの事になると、本当に見境無くなるんだから」
「………」

今の俺に反論する術はない。
現に店の入り口のガラスは一枚見事に割れているのだから。

「これじゃあお仕事の話はできそうにないわね」
冴子はショルダーバッグを抱えると腰を浮かせる。

「待て冴子、それとこれとは話が別だ。仕事の話に入ってくれ」
「いいの、急ぎじゃないから」
そう言いながらも冴子は再び腰を落ち着けた。




「それにしても妹さん、綺麗になったわ」
「……?」
「もう『坊や』なんて呼べないわね」

この前とは大違いよ。
冴子がそう言って笑う。


綺麗になった?
香が?


「気付かないのも無理ないわね。貴方ってそういう所、とっても鈍いから」

ああ、全く解らないとも。
そういえば、と思い当たるフシもない。
何処が、と訊く前に冴子が続けた。

「化粧も上手になっているし、何より物腰が柔らかくなったわ」
「………」
「美樹さんのお陰ね、きっと」

カウンター席を振り返る。
香は未だ女店主との会話に夢中で時折身振り手振りをオーバーにさせながら笑いあっている。

「そのお店、今度連れていって!」
「いいわよ、いつにする?」







「お互い、いい友達ができたみたいね」
「友達……か」

俺はふと思い出した。
ゴミ箱に捨てられた同窓会のはがき。


「そうか、そうだな」









「だから貴方もそろそろ妹離れしなくちゃダメよ?」
「!」

おもむろに冴子がそう言った。
俺は何故だか、顔が赤くなっていくのを感じた。


「貴方がそんなんじゃ、香さんだって成長できないわよ。僚だって香さんの……あ」
冴子が言いかけて口を抑える。
「何だ、僚がどうしたんだ」
「何でもないわ。どうせ言っても分からないでしょうから」
「……?」
「出直すわ。」

今度こそ冴子が立ち上がり、ショルダーバッグを肩に掛け直す。
ドアを開けようとすると、丁度店に一人の男が入ってきた。

「どうもー、**水道です」
「ああ、裏口へお願い」
美樹さんはエプロンを脱ぐと香に渡した。

「修理を頼んでいたの。ちょっと店番お願いね」
「ええっ、無理よアタシなんかに―――」
「大丈夫、5分で戻るわ」
それを聞くと香はホッとした表情を浮かべながらエプロンをかけ、カウンターに立った。


「じゃ、また。」
冴子は俺に軽く手を振り、それから香を見た。
「香さん、さようなら」
「…さようなら」

また何か言われるのではないか。
まだ少し、疑念の眼差しを持ったまま香が頭を下げる。
まあ、これだけでも大した進歩だ。


冴子がドアに手を伸ばす。
と同時にドアが開き、今度は見慣れた男が入ってきた。

「冴子」
「あら、僚」
「話は済んだのか?」
「また今度にしようかと思っていたところよ」
「せっかちなお前らしくもねえな」
「誰の所為だと思っているの?」
「誰だれ、誰かなぁ〜?」

僚はわざとらしくそこらじゅうを見回した。
(お前の所為だよ)
そう思ったのは俺だけじゃないだろう。香も冴子も冷めた目つきをしている。


「お」
キョロキョロと辺りを見回していた僚がカウンターで視線を止めた。

「お前、何やってんの?」
「何って、店番に決まってるでしょ!」
「香ちゃんが店番だと客も減るんでない?」
「うるさいわね!」
「なはは、コーヒー1つな」
「注文するな!」
「飲めりゃ何でもい―――」

「僚?」









「伏せろ!」












僚が叫び、俺と冴子は窓の外から見えない位置に転がった。

ガラスが割れ、コーヒーカップが砕ける。



「香ッ!」
僚は喧嘩腰に身を乗り出していた香をカウンターから引きずり出し、そのまま胸に抱えた。

「きゃ…」
























その後、店の外で轟音が響き、炎上する一台の車を見た。
どうやら狙撃者は後から来たファルコンに一掃されてしまったらしい。

いや、それよりも。










「大丈夫か、香」
「………」
「おい、香?」
「………ぅ…ん」


僚の腕の下で、香が顔を真っ赤にしながら返事をする。

「お…お前ね」

何故か僚までもが釣られたようにどもりながら体を起こした。

「け、怪我はないな?」
「……ん」


パッと体を離すと、僚は店を出ていった。





「………」







確かに。
確かに俺は冴子の言うとおり、鈍いのかもしれない。

だが今、はっきりと解った事がある。




香は僚に惚れている。

そして僚。

僚は………?



















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