「教授、失礼ですがご家族は

「フォッフォッフォ、突然じゃな」

「言い難い事だったら答えなくてもいいんですけど」

ファイルに目を通したまま、何でもない事のようにかずえは訊いた。

「さあ…ワシも老いて記憶があやふやじゃ。そういえば妻とせがれがいたようないなかったような」

「そうですか。ところで教授」

何でもない事のようにかずえは話を変える。

これは優しさなのか興味が無いのか。教授は思わず苦笑する。


「此処でも本当は出産できますよね

「あやつらにも言うたが、わしゃ専門外じゃ」

「専門外だけど多分取り上げた経験は何度かおありですよね私、分かります」

「…さあ、どうだったかの」

「あの二人に言ってあげたら良かったのに、『安心して頼りなさい』って」

「これ位の事でワシを頼るようではこの先人で生きていけん。そう思わんかの

「やっぱりわざと突き放したんですね」

「いつまでもベビーフェイスではいられまいて」

フォッフォッフォ、と軽快な笑い声をあげるが、かずえはその目が笑っていない事を知っていた。

「あれも長い付き合いでの、もう息子のようなモンじゃ」

「親心ですね」

「まあ、そんなところかの」

ふ、とかずえは微笑んだ。

「私、明日様子を見てきます」







きっと二人で不器用ながらも一生懸命答えを出そうとしているに違いない。

そうとばかり思っていたかずえだったので、香のそうではないのだと言わんばかりの顔を見た途端、怒りが込み上げた。

どれに対する怒りなのかは自分でもすぐには解らない。

「もう、あきれた人達ね

かずえの大声に香は何も言うことができずにただただ笑った。

勿論精いっぱいの苦笑いだ。



かずえが香の元を訪れたのは正午過ぎの事で、僚が「昼寝でもするか」と自室に戻った直後の事で「逃げたわね」とかずえが勘繰るのも無理はないタイミングだった。

「香さん、どう体調は」

「色々とごめんなさい。もう大丈夫」

「病院は行ったの

「……」

「香さん」

「あ、はは…ちょっと忙しくて」

「私、お向いさんなんだけど」

動向が丸見えだと告げると香は視線を大きく逸らしながら呟いた。

「……後で…行きます」

「冴羽さんは

「え

「冴羽さん。何て言ってるの

「……」

「色々話したんでしょうあれから」

「………」

「待って、本当に

香の張り付いた笑顔で全てを察したかずえが色めき立った。

「昨日の夜帰ってからどうしたの」



それらしい事は何も話していません。

そのまま別寝しました。

今朝は普通に朝食を食べて掃除洗濯をして今に至ります。



香の告白を聞くとかずえはおそらく此処にいるであろうと天井を睨みつけた。

「もう…あきれた人達ね

「か、かずえさん落ち着いて」

「落ち着いていられますかどうしてあなた達っていつもいつもいつも

「違うの、いいの」

「香さん

「ほら、こんな仕事だからあたし達。こうなった以上はこの先の事を色々考えていかなくちゃいけないでしょ

「そりゃあそうだけど…」

「考えなくちゃいけないことが多すぎて、すぐに答えが出てこないの」

「それでも冴羽さんは何らかの形でイニシアチブを取るべきでしょう!?

既に香にではなく天井に向かって大声を上げるかずえ。

「安心させる言葉くらいかけてあげられないのかしら!?少なくともミックは冴羽さんみたいな真似はしないけれど

「はは…」

香は苦笑する。

きっと上階の男は冷や汗を垂らしながら聴いているに違いない。


大丈夫だから、と呪文のように言い続けるとかずえは更なる怒りを抑えながら帰っていった。

帰り際「いい香さん。何かあったら絶対に頼って無理はしない事」呪文返しの様に何度も念を押しながら。




多少無理をしたとしても細心の注意を払わなければならない。それがどんなに些細な事に見えたとしても。




どうせまだ何処にしようかさえ考えていないんでしょう。

そう言って残していったかずえのリストアップしたメモには名だたる大病院の産婦人科が列記されていた。

香はそれに一つ一つ目を通し、ボールペンで打ち消し線を引いていく。

決して何も考えていないわけではないのだ。

現にリストアップしたこれらの病院は既に把握済みだ。

そしてこの感情は自分だけではなく、僚も同じなのだろうと香は思っている。

考えているからこそ今はまだ、お互い動けずにいるのだ。

周りに決して迷惑はかけられない。

人の出入りが激しい大病院で、しかも生まれたての赤子が眠るフロアで万が一自分達を狙う輩が暴れでもしたら。

背中がゾクリと震える。

無事そこで赤子を取り上げてもらったとしてその後は。

自分一人でさえも重量級のお荷物である自覚はある。

守るものが増えた僚は

そもそも守るものをこのまま増やしてしまってよいのだろうか

僚はきっとそんな事を訊けば「バカ」と答えるだろう。

当たり前だと言いながら自分の肩に荷物を増やす。

自分の愛した男はそんな人間だ。

そもそも自分のこんな状態が裏社会の情報網に引っかかってしまったならば。

「やっぱりダメ…」

絶対に知られてはならない。

誰にも気づかれない様に。

できるだけ、長く。

その為にはこのまま変わらない生活を。

香は一人頷いた。


リストの最後には聞き慣れない病院の名があった。

(どこだろう)

ポケットから携帯電話を取り出し検索しようとしたが

人の気配を感じ、慌ててかずえのメモと一緒にジーンズのポケットにねじ込む。

同時にギィ、とドアがゆっくり開く。

現れたのは

「…もう帰ったわよ」

「はは…さいですか」

情けない顔で笑うパートナー。

「で、どうしたのよ。昼寝は

「ちょっと用事が出来て…ね」

そう、行ってらっしゃい」

「じゃなくて、お前も来るの」

「え








-*-*-*-*-









「美樹ちゃん、こいつちょっと頼めるかな」

「オーケー、何時まで

「うーん、もっこりちゃん次第かな」

「ちょっと待ちなさいよ僚、あたしを置いて誰とどこへ行くつもり!?


何処へ行くのかと思えば馴染みの喫茶店。

しかも当の本人は自分を置いて出かけようとしている。

香の手に力がこもるのを察した美樹は慌てて静止した。

「落ち着いて、ハンマーはダメよ香さん

「んなははは、金棒の無い鬼なんざ怖かないね

「なにを~

履いていたスニーカーを脱ぎ、即座に投げつける。

「遅い

言い残した僚がスキップで店の外へと逃げていった。

スニーカーはドアに当たると無様に転がった。

パンプスだったら窓ガラスを蹴破ってでも後頭部に喰らわせる事ができただろうにと香は奥歯をギリリと噛みしめた。

「僚のヤツ~

「仕方ないわ、本心じゃない事くらい解ってるでしょ

「…そりゃあそうなんだけど…」

「連れて行けないけど家に一人置いても行けないって思ってるのよ、優しいじゃない」

「う~ん…でも、更にお荷物感が増したみたいで…何か…あたし」

「香さん」

「大丈夫解ってる」

冗談冗談。

香は笑いながら床に置いていたトートバッグを持ち上げた。

「あら大荷物ね珍しい。分かった家出

「たはは…やっぱりそう見える

美樹はこくりと頷いた。

甲斐性なしに愛想を尽かした挙句の家出に見えない事もない。



「違うの。ちょっと付き合って欲しいのよ」








-*-*-*-*-








もう少しで喫茶店に着こうかという頃、僚は微かな匂いに気付き足を速める。

「…タコ坊主がパイでも焦がしたか」

軽口を叩くが焼き菓子の匂いでない事は明白だった。

知らずと足が走り出す。

角を曲がると店が包囲されている。

30人はいるであろう喫茶店周辺は既に一般人の人払いが済んでいるらしく、物々しい雰囲気の男達ばかりだった。





防弾ガラスとはいえこれだけの人数と銃器に狙われてはひとたまりもない。

正面突破に必要な動線確保の為の狙撃をし、怯んだ隙に店内へと転げ込む。

それが合図だったかのように銃撃戦が始まった。

「無事かッ!?

「誰の心配をしているんだ」

ありゃ

そこには海坊主一人が重火器類に囲まれながらカウンターに身を隠していた。

香の姿は見当たらない。

「美樹ちゃんと香は」

「外出中だ」

「が、外出中う!?

「僚、お前まさか…」

「は…はは…」

「お前は馬鹿か、中と外の両方から攻めた方が早く片付いたモノを

「ま、まあまあ…焦らず行こうぜ海ちゃん」

「クソッ」

のんびりは苦手なんだ、と額に青筋を立てた海坊主がバズーカを手に取った。



相手の銃器類に目立った大物は無い。

ただ数だけが多く、銃弾の小雨が開け放たれたドアから流れ込んでくる。

大した事のない攻撃に鼻を鳴らした海坊主が口を開いた。

「……」

「ところで僚」

「あん

無言でシリンダーを凝視していた僚を呼ぶと平静を装った声が返ってくるが、表情は虚を突かれたそれでしかなかった。

「お前は何をそんなに狼狽えている」

「……」

「迷うな。迷えば死ぬぞ。お前だけでなく…香も」

「なあ海ちゃん」

「何だ」



いいのかね、俺」



途端にバズーカが火を噴き、開いたドアの向こうで車が炎上した。

「ぶぶぶ、ぶわぁか予告もなしに近距離でぶっ放すんじゃねぇ

「フン気持ち悪い泣き言が聞こえないようにしただけだ

「…海坊主」

「香は美樹が送って行った筈だ、さっさと帰れそれから」

すう、と海坊主が息を吸い込む。

再びバズーカが派手な音を立てた。直後に僚がカウンターを飛び越える。

「煩くて聞こえねぇんだよ、タコ坊主








『悪い筈があるか、死ぬ気で守りぬけ』







轟音の中、聴こえた声は僚だけではなく、発した本人さえをも赤面させた。

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