もう少し。
あと少し。
がんばってね、と小さく微笑んで腹を撫でると呼応するかのようにそれは動く。
初めはギョッとした顔でそれを少し離れたところから見ていた僚も、今ではやっと慣れてきたところだ。
元気だなボウズ、と自分も声をかけながら撫でてやる。途端に呼応がぱたりと止んでしまうから香は思わず笑ってしまう。
「はん、オヤジを無視たぁいい度胸だ」
ムキになった僚が腹に触れ、そして言う。
「お前の母ちゃんでーべそ」
「こら僚ぉ!」
ぼこん、と呼応が再開した。
診察室のドアが開く。
一家は揃って叱られる。
「待合室ではお静かに!」
-*-*-*―*-*-
診察を終えて待合室へ戻ってみれば、ぴたりと寄り添った若い夫婦とこれから検診であろう乳児を抱いた母親、それから離れて座ってお互い無言で雑誌を読んでいる夫婦がそれぞれの順番を待っている。
「車回してく―――…」
言いかけた僚が言葉を止めた。
「僚?」
「……なあ、予定日いつだったっけ」
「さっき聞いたばかりでしょ、来週!火曜日から入院だから覚えておいてよね!」
「あー…はいはい」
チラリと目をやった出入口を静かに男が通り過ぎていく。
「そこのもっこり奥さぁん!旦那さんも帰っちゃった事だし僚ちゃん送ったげよっかあ?」
「あ、あの私、一人で来ているんですけど…何の事だか…」
雑誌を閉じ、女が戸惑いながら顔を上げる。
「えっ……」
「来たな。予定通りといきますか」
変わらず一緒に生きろと咆哮した女は、相も変わらず家事に勤しむ。
今までと何も変わらず、変えずに生きる。
掃除洗濯を粛々とこなし、食事は三食。
変わらず一緒に生きろと言われた男は相も変わらずナンパに勤しみ、夜になれば時々ツケで飲み歩く。
変わるなという言いつけを守るかのように。
時々、熊のように自分の背後を何度もウロウロと歩き回る気配を感じては香が笑う。
幸せだ。
「大丈夫だってば」
「俺ぁパンティーちゃんが落ちないか心配なの!」
大量の衣類が入ったバスケットを奪い取った僚が屋上へとノシノシ上がっていく。
「たはは…」
苦笑しながら香が続く。
今日は雲一つない晴天だ。寝てろと言われたがどうしても外の空気を思いきり吸い込みたかった。
来週になれば入院の予定だ。やれる事はできるだけ済ませておきたい。
「なんだぁ?コレ」
バスケットを物色していた僚が素っ頓狂な声を上げた。
振り返れば両手に肌着。香のものではない、小さな小さな肌着だ。
パンティーちゃんは?ブラちゃんは?とバスケットの中をくまなく探すが
柔らかな生成りのバスタオル、真っ白なガーゼ、肌着、産着、タオルケット…
「んな、無い!」
「当たり前でしょ、水通ししたかっただけ!」
「水…?」
「そう。手伝ってくれるんでしょ?ほら」
「とほほ…」
がっくり肩を落とした僚の手に肌着を握らせ香が笑う。
「それにしても小せぇのな」
「そりゃあそうよ、赤ちゃん用だもの」
「……ふぅん」
「何よ」
「いや…何かさ」
逡巡の後、言葉を飲み込もうとするのがわかった。
が、手にしていた肌着を見ると覚悟したように僚が口を開く。
「すごいよな…おまえ」
「僚?」
「いつだったかさ、柄にもなく考えた事あったよ。未来の事」
洗濯物とにらめっこしていたかと思えば皺も取らないままピンチで性急にとめていく。
いつもならばシワを伸ばせと咎めているところだが、今はそれを目で追うだけにした。
この独白を止めてしまえば、きっとこの男は口を噤んでしまう。
「…どんな事、考えたの」
「なーんも!結局、何も浮かんでこなかったよ。強いて言うなら『死ぬ時はできれば日本で』って位かな。此処で野垂れ死ねたらまあいいか…ってさ」
皺だらけの洗濯物がどんどん並んでいく。
これではやり直しだ。ただし全てを聞かせてもらったあとに。
「槇村もおまえもすごいヤツだよ。死に場所ぐらいしか思い浮かばなかった俺がおまえ達と出会ってから『死んでいられるか』って思うんだもんな!」
「僚…」
「今は死ねないよ…俺。簡単にさ。守るべきものが2つになっちまったから余計に」
「僚……あの、その」
「逆に訊きたいんだけどさ。その、おまえは不安じゃないのか?これからの事とか…ほら、俺戸籍もなぁんもないわけだし?ボウズだって―――」
「困った時は偽造すればいいじゃない」
ガタン!
物干し竿を落としかけた僚が既のところで持ちこたえる。
「あ…あのな…アバウトすぎやしないかい香ちゃん」
「そりゃあちょっとは困る時が来るかもしれないわよ?けど何とかなると思うのよね、あんたといると」
「……」
「あたしにとっては僚とこうやって生きていける事が一番大事。あんたさえ『それでいい』って言ってくれるならあたしの想いは変わらないもの。だから――――」
「ははっ」
「?」
「はははっ、やっぱりすごい女だよ、おまえ!」
「僚…」
「何ていうかさ、悪かないよ俺の人生」
「――――うん」
香は日差しが眩しすぎて目を細める。行き場を失った涙がぼろぼろと零れ落ちた。
それを見ると急に気恥ずかしくなり、僚はそっぽを向いてしまう。が、やっぱり日差しが眩しくて目を細める。
「…おしゃべりが過ぎたかな」
「ううん…あんたってこんな事滅多に話してくれないから…嬉しい…すごく」
「香…」
僚は手の中で弄んでいたガーゼをバスケットに戻す。
それから香の手を取った。
「じゃ、話しすぎたついでだ」
「え?」
「香、俺はお前を――――…」
ぼん。
「・・・・・・・・・・・」
軽い衝撃に話の腰を折られて二人視線を下げる。
臨月の大きな腹から主張するボコボコとした小さな音。
「…蹴ってる」
「こンの…ボウズ、出てきたら覚えとけよ」
屈んでうねりの中心を指でつん、と突いてやると、ボコン!と倍で返された。
僚が笑う。
「あーあ、此処にいたら日焼けしちまうな。昼寝昼寝、っと」
「待って僚」
「あん?」
「洗濯物。シワを伸ばして干し直し」
「んなぁっ!?はじめっから言えってんだ!」
「はいはい、さっさと済ませる」
二人の間を微風が流れる。
皺だらけの肌着がゆるりと揺れた。
-*-*-*-
『あのね、相談。転院を勧めようと思って』
木村医師の読みは当たっていた。
『かずえから聞いてる。あなた達、命を狙われることもあるような探偵さんなんでしょう?考えすぎかもしれないけど気になる事が幾つかあった』
あのばあさんカンがいいんだよな、と思いながら目の前の男を羽交い絞めにする。
こっちの浮かれ具合を見て取った彼女は、頑なに子供の性別さえも教えてはくれないのだ。
チェックのネルシャツにジーンズ姿。
入院中の親子に面会に来た風を装った男の手からトカレフが落ちた。
「ぐっ…なぜわかった……!」
「待合室ではどうも。色々と下手なんだよおたく」
『紹介状を書いておいた。先方の産科もうち位小さい処なんだけどね、以前トラブルがあった時にセキュリティを強化したらしいのよ。だから此処より安心』
呆気なく偽の情報につられて夜中の入院病棟に現れた男に銃口を突き付ける。
「この間、喫茶店を襲撃した一派だろお前」
「……」
「だんまりはよくないぜ」
「時間さえ稼げば仲間がじきに来る」
「……チッ」
此処に敵襲を呼ぶわけにはいかない。
この場所では血を流さないようにと後頭部への打撃で男を気絶させる。
「あ~あ、こっちから敵さんを出迎えにいかにゃならんのかね…っと」
非常階段を誰かが駆け上がってくる。即座に銃口を向けるが、同時に見知った気配である事を察知する。
「僚!」
「海坊主?どうして―――」
「着信を確認していないのか」
「?」
「香が産気づいたらしい」
「あぁ!?明日切開って聞いて―――」
「いいから向かえ、此処は俺が片付けておく」
「………」
閑静な住宅地。
小さな命で溢れる入院病棟。
「任せてられるかよ、バズーカ無しでどうやって立ち回るんだよお前!」
「繊細に迅速に片付けてみせる。…行け」
「いや。ここの赤んぼ達を置いて立ち会いに行ったら俺きっと香に殺されるわ。――行くぜ」
「フン」
『カルテ回したら喜んで引き受けてくれたわ。あっちで極秘出産させる。必要なら私も行くから』
『武田産婦人科っていうところ』
-*-*-*-*-
「―――香ッ!」
相変わらず矍鑠とした武田老人――もとい武田医師に案内されて病室に転がり込む。
「僚……」
ぐったりとしている香を抱き起しながら美樹が言う。
「おめでとう。さっき産まれたわ」
香はピースサインを作って笑う。
「は…はは…やったな…」
つられて僚までピースサインを作ったが
「ううん、そうじゃなくて」
「へ?」
ゆっくりと香の隣に視線をやる。
小さなベビーベッドが二つ並んでいる。
「……ん?ふたつ…?」
「そう、二人」
「男の子と女の子。おめでとう」
「んな…嘘だろ…?」
「やだ、冴羽さん本当に気づいてなかったの?」
「守るものが…ふたつ…じゃなかった…みっつ…」
「り、僚ぉ…?」
「は…はは…こりゃあいいや」
ピースサインをしたままだった指がふにゃりと崩れ落ちていく。
脱力しながら僚が笑った。
「悪かないな…うん」