水色のロンパースを着た男児が、はいはいで何かを追うように走り出し、声を上げた。
「もぉ~、あ~!」
ピンクのロンパースを着ておすわりしていた女児は、応えるように声を上げる。
「ぉお~!」
小さな手には柔らかなビニール素材の積み木が一つ握られていて、T字型のそれを勢いよくぶんぶんと振り回す。
香はがくりと項垂れる。今日一日だけで何度これを繰り返しただろう。
昨日までは可愛いわねとその意味に気づきもしなかったが、今日何度目かのそれを見て、やっとで合点がいったのだ。

『もっこりちゃ~ん!』
『僚ぉ~!』

「たはは…完全に悪影響だわ……」
今までと何も変わらず美女を見てもっこりと声を上げる僚と、ハンマーで制裁を加える香。
もうすぐ夜が訪れる。そろそろ帰ってくるであろう父親にこれを見てどう思うのか問いただしてやろうかと、香は時計に目をやった。

「ぉおー、お」
何やら喃語でやり取りしていた二人が急に静かになった。
「あら、オムツかしら…」

ビーッと警報が鳴り響き、モニターを確認する。
アパート1階から複数の侵入者を認めると香は携帯ブザーのスイッチを押した。
有事をパートナーに伝えると
「…はーい、パパが来るまでかくれんぼでもしていましょうね」
なるべく緊張感を抑え、弾んだ声音で男児を抱き上げる。
手早くおんぶ紐で背中に背負い、むずがる女児は抱きかかえてリビングを出る。

 


幾つかあった夜這い専用の抜け穴は非常用の隠し通路と隠し部屋になった。香は乳飲み子を二人連れながら何度も此処を通り抜けている。
(今日は数が多いから気を付けないと)
ズン、と地響きが鳴る。
一瞬びくりとした背中の男児。抱きかかえていた女児はパチパチと手を叩く。音の正体が分かっているかのようだ。
「ありがと。大成功だわ」

玄関のトラップが作動し、男達の呻き声が聞こえてくる。
(全員やったかしら…?)

ガタン!

「くそッ、くだらない細工をしやがって!」
「そいつらは後回しだ、今はガキと女を探せ!」

(二人残ってる…!)
隠し部屋で香は息を潜める。
階段を駆け上がり、乱暴にドアを開ける音。

「どこだ!?」
焦れた男が壁や天井に向けて二度三度と引き金を引く。
銃声を聞いた背中の男児が、ぶくぶくと泡のよだれを作りながらウブブ…と声を上げた。
慌てて背中を揺らすが次第に声は高くなる。ついには

「もぉ~、あ~!」
(あ、ダメ!)
香の嫌な予感は的中し、背中から聞こえたそれに条件反射で女児が応える。
「ぉお~!」
(やっちゃった……)
天を仰ぎ見る。
それもこれも僚の所為だわ、と香はその場にいない二人の父親を恨んだ。

「ガキ共の声だ!」
「―――フン」
気づいたらしい男の声。
靴音が近づいてくる。

(―――僚!)

銃身で壁を何度か叩くと確信した男が言う。
「此処だ…撃て。何発でも構わん」


「そりゃあ困るな。修繕費用はおたくらの命より高いんだぜ」
「!」

ぉお~、と女児がまた声を上げた。
「僚!」

 鈍い音と男達の沈黙。それから重いものを引きずる音。
全てが終わった事を知らせるノックの音を聞くと、香はやっとで子供達を連れて隠し部屋から出た。
ずっとむずがっていた女児を降ろすと、僚が言う。
「悪いな、遅くなった」
「ううん…ありがと」
「どういたしまして、っと!」
ちょん。
クロスされたおんぶ紐の胸元、強調されたバストの先端をまるでスイッチを押すかの様に人差し指で突く。
「んっ、んな!このもっこ―――」
「もぉ~あ~!」
再び男児が背中で騒ぎ出す。
やはり女児が呼応した。
「ぉお~!」

制裁する前に子供達から先手を打たれた香は怒りを抑えながらおんぶ紐を解く。
床に降ろされるなり男児がはいはいで走り出した。丸みを帯びた愛らしい後ろ姿だが、何故か僚とシルエットがかぶる。完全に夜ばい時のそれだ。
(…かべちょろ親子)
「なーんか言ったか」
「別に!…ね、僚。どうして居場所がバレちゃったのか教えましょうか」
「…いい、さっきので何となく見当がついた」
「気を付けよっか、あたし達」
「だな――――…ん?」

気づけば、はいはいで追いかけっこのように戯れていた二人はそれぞれ僚の右足、左足に掴まり

「……立ってる」
「へ」

両脚を掴まれて棒立ちの僚が恍けた声を上げた。

「この子たち、立った…初めて…」
「んな…なんつータイミングだよ」
僚が足元を見下ろせば、上目遣いで自分を見上げていた子らが、視線が合うと同時にふにゃりと笑った。
視線を上げれば香までもが同じ顔で自分を見つめてくる。

「…困ったね、こりゃ」

それ以上の言葉が思い浮かばない。僚は諦めて頭を掻いた。


翌日のニュースでは、身体の一部を切り取られ、四肢を縛られた男達が病院前で発見されたと報じられた。
アパートで非常事態が起こった後は決まって同じような事が起こる。
裏社会で、見せしめであるそれに気づかない者はいない。
そうしてアパートの平穏は保たれている。


-*-*-*-*-

「美樹さん海坊主さん、僚来なかった!?」
喫茶店のドアを乱暴に開けるなり香が咆哮する。

「まま」
「まま」
聴きなれた声にブン!と首を向けると、奥のボックス席には我が子二人がプラスチックのマグカップを大事そうに両手で抑えている姿が目に入った。
「来たわよ」
美樹が特製のミックスジュースを注いでやると、ユニゾンで「あー!」と嬉しそうな声が上がる。
「『後は頼む』ですって」
「あンのバカ…子供を置いてどこに行った!」
「ナンパに行くんですって。さっき出たばかりだから今追えば間に合うわよ」
「ありがと美樹さん。あ、」
「心配しないで。二人は責任持って預かるわ」
「ごめんなさい!すぐ戻る!」


「…行ったわよ、冴羽さん」
「サンキュー、美樹ちゃん!助かった」
皿を拭く海坊主の横。
カウンターからひょっこり顔を出した父親を子供達は振り返らない。
「今日はどうしたのよ」
「どうもこうもねえよ!朝からあいつが一人で勝手に怒ってんの。怒りたいのはこっちのほうだってんだ」
「あらどうして」
「たまぁに飲み歩けばオムツ代が!ミルク代が!ってそればぁーっかり!俺だってね!遊びたいし飲みたいの!」
「で、香さんもそうだろうなって思ったからこの子達連れて出てきたんでしょう?」
ちがわい、と呟いた僚の頬はうっすらと赤い。
「ちゃんと『一人でゆっくりしておいで』って言わないと。すぐに戻ってきちゃうわよ」
「だぁ~かぁ~ら!違うっての!逃げてきたの!俺ぁ!」
「はいはい。…ファルコン」
美樹が後ろ手でエプロンの紐を解きながら海坊主に訊く。
「構わん」
「ありがと。じゃあ、香さんと夕方までには戻るわね」
無心でジュースをこくこくと飲み続けている二人の頭を撫でると美樹は言った。
「いってきます」
「ばばーい」
やはり二人が声を揃え、小さな手を振った。

「じゃ、海坊主!そゆ訳で僚ちゃんも―――」
「待て、お前も留守番だ」
カウンターをひらりと飛び越えた処で首根っこを掴まれる。
「あら、やっぱり?」
僚は渋々とスツールに腰かけた。

「あーあ!スイーパーが子守だなんて世も末だね」
「だが、幸せなんだろう?」
ニヤリと海坊主は笑う。
「大体、本当に置いていけるのか?あの子達を」
「………。」
僚はゆっくりと振り返る。
「ぱぱー」
ジュースのおかわりが欲しかったらしい二人は、口々に父親を呼ぶ。
「…ったく、こんな時だけパパだとさ」
ゆっくりとボックス席に向かうとピッチャーのそれをマグカップに注いでやる。

「ほらよ」
「あっとー」
拙いありがとうを言い、二人そろってペコリと頭を下げる姿に思わず苦笑してしまう。
敵わんな、と海坊主も笑う。
「なあ、海坊主」
「何だ」

「こんなのがさ、戦場に落ちてたんだぜ?そりゃ置いていけねぇわな」
「僚…?」
「自分のガキでさえ、こぉんなてんてこ舞いだぜ?苦労しただろうよ、ホントにさ」
「だが、幸せだったんだろう…あの男も。こればかりは終わってみなけりゃ誰も判らん事だ」
「……ま、いつか地獄で訊く事にするさ」
「僚……。」


「ぱぱー」
「また飲むのかよ!…『ちょうだい』は」
静寂を破る幼い声で我に返る。
ふと、いつも香のしている事を真似てみると、二人は掌の上に手の甲を重ねてポンポンと打ちながら言った。
「だい!」
「よくできました、っと。それからチビ共、俺はパパじゃなくておやじだ。お、や、じ!」
「ぱぱー」
「…ダメだこりゃ」
がっくり項垂れながら3杯目を注ぐ背中に海坊主が言う。
「当然だ。何歳だと思っている」
「るへっ!パパって呼ばれんのはこう…性に合わねぇんだよ!」
「慣れていけばいい。先は長いんだ」
「先は長い…ねえ」


「ぱぱー。だい!」
「もうないっての」
「だい!だい!」
「だぁ~から、もうないっての!」
二人は、空になったマグカップを放り投げる。
「うおっと!」
ちょうだいを繰り返す小さな瞳に涙が溢れていく。
「ぁあ~ん!!!!!」
ついに二人は泣き出した。

「も…先が長いなんて信じらんなぁい…」

二人を同時に抱き上げる。
うわあん!と力強く泣き叫ぶ騒音の中。
たまんねえな、と僚が笑った。

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