愛とは無償で贈り贈られる感情であって、決して見返りを求める為のものではない。
一方的でも押しつけでもないその感情を最近になって分かってきたような気がする。(あいつといりゃあ厭でも分かるわな。)
だが、自分は一体どれほどの愛を返せたのか。
それは今でも分からない。
−*−*−
「あ」
香が思わず手を止め、声を漏らした。
それから後悔したらしい。アイスコーヒーを乱暴に目の前に置かれた。
「はい!僚の分!」
理由は訊かなくても分かっている。わざとテレビ画面から目を離したのを俺が見逃す筈がない。
実際俺もその場面に気を取られた位なのだから。
「行くか?」
東京湾上空をヘリコプターが飛び、進水式が行われたばかりの高級客船を追う。
だが気になったのはそこじゃない。
『一日3便、此処から出航します』
とレポーターの紹介する港には見覚えがあった。
俺も、香も。
「僚……」
「夏だしな。クルージングってのも悪かないだろ?」
「……うん」
香は何故だか、泣きそうな顔で頷いた。
−*−*−*−*−
いらん、と言ったが「だめよ」と引き下がらない。
途中花屋の前で停めろと言った香は奮発したのだろう、数分後に大きな百合の花束を抱えて戻ってきた。
カサブランカだ。
「そんなに買ってどうするんだよ。臭いったらありゃしねぇ。」
エアコンを止め窓を開けると、車内に立ちこめた甘い匂いが窓の外へと流れていく。
香は勿体ないとぼやいた。
「高貴な香りじゃない!臭いのはアンタの煙草。」
「へーへー、仰る通りで。」
煙草の火を消し、ちらりと横目で香を確認する。
慈しむ様な眼差しでユリを見て、うっすら笑みを浮かべている。
香の腕の中、そよそよと揺れる花束。
目に痛い程の白は、あの時乗り込んだ船の目映さとよく似ていた。
「おま……」
「何?」
顔を上げ、香が俺を見る。
「いや、何でもない。」
「僚は」
考える間もなく、訊こうとした事を逆に問われた。
「どうして…行こうと思ったの?」
「んー、クルーズ目当てのもっこり美女をナンパできるからかな〜」
「もう…」
真面目に答えなさいよね、と香が溜め息を吐く。
そう言われても仕方ない。
どうしたって今すぐ答えが出そうにないんだ。
「さあね」
甘い匂いにむせながら、俺は苦笑した。
−*−*−*−
前もって借りておいた小さなクルーザーに乗り込み、出航する。
自動操縦に切り替えて甲板に出ると、たちまち小さく遠くなっていく陸地を香はじっと眺めていた。
あの時は小型ボートだった。
覚悟を決めたシュガーボーイの横顔を見つめながら「死んでは帰れないな」と思ったのが昨日の事のように蘇ってくる。
あの時対戦車ロケット弾が載っていた香の膝の上には今、ユリの花束。
襟足の伸びたショートヘアを潮風に靡かせながら車の中で見せた表情を浮かべている。
「香…」
エンジン音に紛れながら、小さく名を呼んだ。
「さて…ここら辺だったな」
正確ではないかもしれないが、ここだと思った地点でエンジンを停めた。
「僚、これ」
香が立ち上がり、抱えていた花束を俺に寄こす。
「…ったく、勿体ないねアイツには」
ブツブツ言いながら片手でそれを受け取り水面に放る。
穏やかな蒼の中、ゆらりゆらりと白が揺れた。
香は手を合わせる。
「おい、墓じゃないんだっての」
「でも…」
「いいんだよ。」
相変わらず揺れる水面の花を見つめながら俺は言った。
自分でもどういう心境なのかが分からない。
船が沈没しただけの此処を海原の墓と呼んでしまうには余りにも呆気ないし現実味も無さ過ぎる。
だが、此処に来ようと思ってしまったのは事実だ。
『どうして行こうと思ったの?』
車の中で香に訊かれたその問いの答えが未だに見つからない。
「…ま、どうでもいっかあ…………」
帰るか、と言いかけた唇がそのまま止まった。
振り返れば香が大粒の涙を零している。
「な、何でお前が泣いてんだよ」
「だっ…だって……嬉しくて…」
「嬉しい?」
「うん……」
「香…」
俺は微笑みながらも涙を零し続ける香を引き寄せ、胸にきつく抱いた。
波は穏やかなくせに俺の心は荒くうねる。
この感情をどう表現したらいいんだか。
ただ香ともう一度この場所へ来ようと思ったその心だけが真実。
「ねぇ、こういうのって…親孝行って言うんじゃないのかしら。」
香は微笑んでそう言った。
「親孝行…ね。」
どうなんだか。
愛とは無償で贈り贈られる感情であって、決して見返りを求める為のものではない。
だが、自分はおやじに一体どれほどの愛を返せたのか。それは今でも分からない。
むしろ
「最後まで親不孝な息子だったよ。」
足一本分の恩も返しちゃあいない。
挙げ句、命を奪う事でしか救う事ができなかった。
こんな俺をアイツは最期まで『息子』と。そう呼んでくれた。
なるほど香の言うとおり、これはある意味親孝行なのかもしれない。
腹の中でうねっていた波が一気に引いた気がする。
「親不孝息子のする、最初で最期の親孝行…だな。」
「素敵な親子だと思ったのよ。」
「はん、どこが。」
「あんな形にはなっちゃったけど、でも確かにあの人と僚は深い愛情で結ばれた親子だったわ。」
「……」
「だからこうして僚があたしを連れて此処に来てくれた事が…嬉しいの。」
「香…」
抱き締める腕に知らずと力がこもる。
「じゃあ…これは墓前報告になるのかな…?」
香の頬を転がる涙の粒を親指で拭い、ゆっくりと唇を重ねる。
おやじ。
俺は相変わらず生きてるよ。
こいつと一緒にな。