「貸し、3発増な。」

朝陽が眩しい。
爽やかな空気の中、これほどまでに似合わない台詞は無いだろうと冴子は額に手を当てた。
崩れ掛けた目の前の廃墟ビルでさえ、こんなに綺麗に見えるのに。

「他に言うことないの?あなた。」
「今すぐ払えば割引するぜ?」
「…もういいわ。」

冴子はビルを見上げる。
綺麗に右半分が半壊している。中でどう立ち回ったのかが一目瞭然だ。

「…ご苦労様。早く帰りなさい、香さんが待ってるわ」
「一晩中使っておいてよく言うぜ!」
「あら、目的は一緒だったから協力したまでじゃない。」

煙草を吸おうとした口が女狐、と小さく毒づく。
冴子は聞き逃したふりをした。

「誤解しなければいいけど、香さん。」

『香』
その名を聞いた男は今度こそと口に運んだ煙草を落とす。
顔色が変わっていく様を冴子は見逃さない。








昨晩。
さあ寝ようかという時に入った冴子からの電話を『エリカママからのお誘い』と香に告げて出てきたのだ。
まさか朝帰りともなれば…
「どうせ誤解されるなら事実にしちまおうぜ、冴子。」
「生憎予定があるの。あなたとはここでお別れよ、僚」
「ちぇっ」
「ごめんなさいね」
「本当にそう思ってんならツケ払えっての」
ブツブツ言いながらも僚が運転席のドアを開ける。

「他の形で償うわ」
「どうだか」

エンジン音が遠ざかる。
見慣れた赤が遠くなった頃、冴子は携帯電話を取り出した。















−*−*−*−*−*−











「たっだいま〜…」
「どこで何してたこのバカ!」

ドアを開けるなり、ばふ!と情けない音たてて飛んできたのはビーズクッション。
当たったところで何のダメージにもならない。そのまま顔で受け止めて床に落とす。

「待てよ香」
「待たない!」

続けざまにもう一つ。
今度は軽く手で払いのけてまた床に落とす。
徐々に距離が近づいている事に香は不快感を表情にそのまま表した。

「来ないで!」
「そりゃないぜ香ちゃん」
「気安く名前も呼ばないで!」
「………」

朝帰り一つでそこまで言うか。
苦笑しつつ僚は更に距離を縮める。

「朝帰りは謝―――」
「来るなって言ってるでしょお!?」
「うわ、ちょ、それタンマ!」

ガラステーブルを持ち上げ、香はそれを力任せに振り下ろした。
ガシャン、と予想通りの割れる音…がしないのは僚が上手い具合にテーブルを抱きかかえながら吹っ飛んだ所為だ。

「殺す気かお前!」
「死んじゃえばいいのよ…」
言いかけた香がハッとする。そして
「…っていうのは言い過ぎだけど……」
モゴモゴと語尾は小さく聞き取れない。

罵倒位好きな様にやっときゃ少しはスッキリするだろうに。
僚は笑いたくなるのを堪えて訊いた。

「何で怒ってんだよお前は」
「朝帰りしたからに決まってるでしょ!」

僚は眉を顰める。
朝帰りを怒っているにしてはいつものような気迫が足りない。
しかも一撃食らわせればスッキリして表情を変える筈の香が、奥歯をぐっと噛んで自分を睨んでいる。見方によっては今にも泣いてしまいそうなその表情。
懲らしめて欲しいわけではないが、怒り方が普段と違えばそれなりに気にもなる。

「何がそんなに気に入らないんだよ」
「あんたが嘘をつくから」
「…」

「冴子さんから電話が来たのよ」
「いつ」
「さっき」
「………」
「無理矢理押し付けた仕事をしてくれただけだから怒らないでやってくれって言われたわ。」

冴子のヤツ、余計な事を。

『他の形で償うわ』
あれはこの事だったのかと僚は今更思い出す。
本当に余計な事をしてくれた。

「仕事なら仕事って言いなさいっていつも言ってるじゃない!」
「あー…」
「どうしてあんたはいつもいつもいつも……しかも冴子さんの…」

ああ、面倒臭えの。
僚は、少し痛いが一番てっとり早い方法を選ぶことにした。



「もしかしてお前、ジェラシー?」
「!」

瞬時に香が立ち上がり、自分の座っていたソファーを持ち上げて振り下ろす。
一撃で僚は床に沈んだ。

「か、香ちゃん今日は一段と過激…」
「妬くワケないだろこのアンポンタン!」
「じゃあ何なんだよその怒り様は!」
「怒ってなんかないわよ!」
「怒ってもいない女がソファー投げるかよ!」
「どうせ女じゃないわよ、あたしは。」
「おい…」

気付けば話の矛先が変わっている。

「女だろ、一応」
「一応は余計だバカ!大体ね――――」






「何であんたのパートナーはあたしなのに、冴子さんに仕事の話でフォローされなくちゃいけないの!?」





「……」
「何であたしはあんたが飲みに行ったわけじゃないのを知ってて騙されたフリしなくちゃならないの?何であたしは留守番?何で冴子さんに『勿論僚とは何もないから安心して』なんて言われなくちゃならないの?何であたしはそれで悔しいと思うの?何で!?」




目が血走っている。よく見れば目尻にうっすら涙が滲んでいるような気もする。
香は一気にまくしたてたかと思うと吐いた分だけ息を吸った。
普通の女であればこの後が果てしなく長いのかもしれない。だが
「…ああ、すっきりした。寝るわ!」
ゴシゴシと目を擦り、乱暴に涙を拭くと香は背を向ける。

「寝るって…朝だぜ香ちゃん」
「誰かさんを待ってたら、」

振り向きざま嫌みを言おうかと思っていた香は言葉を止めた。




「………何、その顔」

「え?」




「何でそんなに嬉しそうに笑ってるのよ」

言われてから初めて僚も気付く。
手のひらで顔に触れてみれば確かにニヤニヤと自分の顔は緩んでいる。

「え?あれ?どうしてかな〜、僚ちゃんわかんない…」
「あたしが怒ってるのがそんなに楽しいのかお前は…」

掴んだままのドアノブがカタカタと、ややあってからガクガクと大揺れを見せる。

「おわっ、香待て!」
「待つかこのデリカシーゼロのバカ男〜!」

ドアノブを力任せに引っ張れば蝶番が綺麗に外れる。
手裏剣のようにドアが飛び、僚の顔面にクリーンヒットした。
倒れ込んだ僚に罵声を浴びせて部屋を出ようとした香だったが。

「……何よ」

未だ顔の緩んだままの僚に不思議そうに問いかける。

「いや…お前も女だったんだなー、って。」
「どういう意味よ」








パートナーとして、女として冴子に嫉妬する香。
そんな自分を浅ましいと思いながらも止められない本人にとっては大問題なのだが、それを見て嫌な気持ちがしない…なんて事はまさか言える筈もない。
嫉妬する女は大概醜い様を見せるのだが、目の前の女だけはその種に見えないのは惚れた欲目か。


「悪かったよ」
痛む顔を押さえて立ち上がり、真顔でそう詫びれば
「…どこまで本気なんだか」
結局許してしまう香。

それさえも愛おしく
「…くくっ」
また顔が緩んだ。

「僚!あんた、あたしの事バカにしてるでしょお!?」
「うわっ、勘弁して香さま!」

戯けてひょいと拳を避け、ここぞとばかりに近距離までに香を引き寄せる。

「それよか寝不足なんだろ?ベッド行こうぜ」
「行こうぜって…あ!」
「ボキも徹夜仕事で眠〜ィの。」



ただ眠るだけじゃないけどな。


敢えてそれは言わない事にした。





















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