依頼人は男性。幸い僚はまだ依頼が入った事を知らない。

持ち掛けてきた依頼料は相場以上。

相手方の話を聞き終えると香は即答した。

 

 

「ごめんなさい、受けられません。」

 

 

 

 

依頼を受ける時も断る時も、返事の前に必ず一報入れる事。面倒ごとに巻き込まれたくなければそれは必須。

パートナーになりたての頃から何度も何度も言われてきた。

初めの頃は細かすぎるだの小姑だのと反抗した時もあったが結局は僚の言う通りの面倒ごとが待っている結末になり、懲りた香はこれを忠実に守ってきた。

依頼を受けなければ生活ができないという限界の時でさえ、『この依頼受ける事にしましたから!』と言いつつも最終的な判断は僚に任せてきた。

だが今回だけは自分が判断しようと香は思っていた。

 

 

「勝手ながら身元確認をさせていただきました。T航空株式会社の社長さん自らのご依頼でお間違えないですね」

『はい』

「依頼内容はセスナ機担当社員の身辺警護でしたね。残念ですが何と言いますか…」

言葉を選ぼうと香が思案する。余計な情報は与えたくないから。

「えっと…うちは、空の上に対応していないんです」

『はい?』

結果、とんちんかんな断り方ができあがり、そりゃあ聞き直したくもなるわよねと思うがそれどころではない。

「とにかくごめんなさい、航行中のガードは対象外なのでお断りさせて頂きます」

 

無理やり押し切ると一方的に通話を終える。

1か月ぶりの依頼だったが未練はない。

助手席に置いていた買い物袋を持つと、香はガレージを後にした。

あたしは買い物に行っただけ。

依頼は入ってない。うん。

自己暗示のように力強く呟きながら階段を上った。

 

喉から手が出る程に欲しい仕事を受けなかった理由は一つしかない。

僚が飛行機に恐怖する姿を二度と見たくないと思っていたからだ。

多少の我慢がきくかもしれないが、その多少の我慢さえ不必要だと香は思う。

幼少期の大きな心の傷は一生かかっても癒す事は不可能だろうしこれ以上傷を抉りたくはない。

だからどうしても飛行機から遠ざけておきたかったし飛行機絡みの依頼があっただなんて口が裂けても言いたくなかった。

こんな依頼、受けるくらいなら毎日激安カップラーメンでも構わない。

 

 

「ただいま、すぐご飯にする」

「…おう」

腹へった、と悪態をつきそびれて僚は思わず振り返る。

 

「依頼は」

「なかったわ、あ~残念」

「………」

その割に悲壮感の欠片も感じられない。

訝しげに顔を覗き込めば案の定、香は不自然に目を逸らした。さっきまでの自己暗示が台無しだ。

「お前…さては美女の依頼断ったな?」

「ち、違うわよ!」

「なぁんか怪しいのなお前」

「ごちゃごちゃ煩いわね、夕飯抜きでもいいの?」

「それは勘弁!」

サッと買い物袋からビールを抜き取ると僚が自室へ逃げ出し、香はホッと胸をなでおろした。

 

 

 

 

 

-*-*-*-*-

 

 

 

 

 

 

『XYZ 再度連絡請う』

 

香は慌ててそれを消した。

黒板消しがあるのにも関わらず掌で擦ったのはすぐに後ろからパートナーが追い付いてくるという焦りからだ。

間に合わない、とまずは『再度』の文句と電話番号を確実に消した。

 

「なーに消したのかな?香ちゃん」

背後からのっそりと近づいてきた僚が香の肩に顔を乗せると薄笑いを浮かべながら訊いた。

昨日何とかやり過ごした筈だったのに。

来る、と香は身構えた。

「んな、なんのことかしら」

「もっこりちゃん…じゃなさそうだな」

「……」

「じゃあ冴子――は無いな」

「……」

「それとも俺に言えない内緒の依頼とか」

「…………」

勘のいい男だ、是でも非でも返事をしてしまえば確実にバレる。

微動だにせず香は僚の動きを待った。

「強情ねお前」

長期戦か、と覚悟したが

「…ま、どうでもいいけどぉ」

意外にあっさり追及が終わった。

肩が軽くなったかと思えば背後でナンパを始めた甲高い声が聞こえてくる。

「かぁ~のじょ~、お茶しな~い?」

「何て切り替えの早いヤツ…」

だが好都合だ。

ナンパに現を抜かすパートナーに背を向けぬ様にゆっくり後ずさりながら香は携帯電話を取り出した。

 

 

 

 

「あの、困るんです。依頼はお断りした筈です!」

強い口調で言い切るが

『そんな事言われましてもこちらだって困っているんですよ、警察も取り合ってくれなかった。お願いですから一度お会いしてアドバイスだけでも頂きたい!』

更に強い口調で相手も懇願する。

「アドバイスと言われても……」

『受けてくださるまで私は何度でも依頼させていただく!』

頑固一徹の社長なのだろう。

この気力を他に向ければ簡単に解決しそうなものをと溜息が漏れた。

 

 

T航空はセスナでの遊覧飛行と航空写真撮影を中心とした航空会社だ。

ガード対象者は航空写真担当の男で、撮ってはいけないものを撮って以来、身辺を狙われているのだと言った。

粘り負けした香はT航空本社で依頼の詳細を聞かされる羽目になっている。

 

「撮ってはいけないものって…?」

「危険思想で有名な宗教団体のアジトです。警察も未確認だったようで大騒ぎになりました。それから写真を撮った担当が狙われるようになったんです。一度誘拐されかけた事もあります。」

「警察沙汰になったのなら取り合ってくれるんじゃないですか」

「やり方が姑息で分かってもらえないんです。それどころか社員の中に団体の内通者がいるのではないかと疑心暗鬼になる程で」

「…警視庁に話のできる人間がいます、彼女に話を通しておきますので」

「本当ですか!」

「なので私の仕事はここまでとさせていただきます」

「わ、分かりました。最後に一つだけ!」

「はい?」

「貴女の目から見てこの会社内に気になる所は無いか…ざっと見ていただくだけで構わない、少しだけお時間頂きたい」

 

「一日で分かるわけないじゃない。しかも僚だっていないし」

ぶつくさ言いながらも施設内を歩き回っているのは、それだけで日給が発生したからだ。

「こうなったら徹底的にやったるわ」

 

腕まくりした香は格納庫へと踏み込む。

誰もいないと聞かされていた筈の暗闇の奥。黒い物体が幾つか蠢いた。

 

「どうする」

「――――殺せ」

 

 

 

 

 

*-*-*-*-

 

 

操縦席が開けられようとする重い音が一瞬聞こえ、そして止まる。

両脚を固定され、通路に寝かされていた香は猿轡を噛まされたまま精いっぱいの声を上げた。

 

「んん、ん!」

ダメだ。

そちら側を開ければ爆発する。

 

伝わったのか今度は助手席側のドアが開き、此処には現れて欲しくはなかったパートナーが険しい顔つきで自分を見下ろした。

怒っているのかこの機体へ乗り込む事への恐怖か。おそらくどちらもなのだろうと思うと直視できず、香は目を逸らす。

 

「何で言わなかった」

そんな事を訊かれても素直に答えられる筈もない。猿轡を外されると

「何でここがわかったの」

質問には答えずそう訊いた。

「頑固なヤツは吐かせるより泳がせるのが一番なの。それより依頼を隠すたあどういう了見だ」

言い訳を全て飲み込むと、返事は自然とぶっきらぼうになった。

「…断るつもりだったから報告しなかっただけ」

「断るにせよちゃんと報告しろって言ってあるだろうが」

「悪かったわよ」

「ったく、要らねえ気遣いしやがって」

 

後ろ手に縛られていた香の腕に手を伸ばす。

まずい。

香が咄嗟に叫んだ。

「待って僚!」

「あん?」

 

返事と同時に切れたピアノ線が目の前を泳いでいった。

二人の視線の先でエンジンが始動する。

「んなっ――――」

 

派手にエンジン音をたてるセスナの機内で僚は体を強張らせた。

 

ふぐっ。

込み上げるものを喉元に無理やり押さえつけた音がする。

 

「あたしの手足が動くと操縦席周りに張り巡らされてる仕掛けが作動しちゃうの!」

「ばっ、バカそれを早く言え!」

「だって見えてると思ったのよ!」

「あのなあ!俺が気付けるかよ、こんな機内で!」

「…はは、そうよね」

実際、張り巡らされていると言っても香の夜這い防止トラップよりも稚拙で至極単純な作りのそれ。

運転席の仕掛けに気付いた時点で当たり前に解除できるとばかり思ってしまった香は甘かったと顔を歪める。

「ごめん」

「ごめんで済んだら警察いるかっ!ったく」

道化が始まったと香は思う。恐怖を紛らわせているのだと嫌なほどに伝わってくるのだ。

こうなったらそれに倣ってやるしかない。

「わかったわよ!後でちゃんと謝るから、ちゃっちゃと解放してちょうだい」

「お前ね…鬼!悪魔!」

「鬼で悪うございました!」

 

ごめん、僚。

ごめんなさいと心の中で何度も謝る。

どんな連中に囚われた時よりも罪悪感に苛まれる。

 

「それより早く!連中爆弾を仕掛けていったの!数分後にエンジンが温まったら爆発しちゃう」

「何ぃ!?」

「仕掛けは大体わかる、この手錠を外して頂戴。足にも仕掛けがついているからそっちはまだ触らないで」

僚はベルトのバックルから針金を取り出す。鍵穴に差し込むが

「……」

普段なら秒もせずに開けられる筈が未だカチカチと金属音が止まない。

「あ~、クソ!」

腹立ちまぎれに僚が叫びながら半ば力任せに開錠した。

 

「ありがと、あとは大丈夫だから先にセスナを降りて」

「…んなワケいくか、早く済ませるぞ」

「いいからお願い」

「かお―――」

 

「僚!」

 

怒鳴りつけるように名前を呼ぶと香は右足を縛るコードの先を目で追った。

「お願いだから。あたし…本当、あんたにこれ以上…辛い思いさせたくない」

「香…」

「あたしなら大丈夫、すぐ行く」

香は仕込んでいた小型ナイフを取り出すと三叉に分かれたコードのうち、記憶していた安全な一本を切る。

 

ビーッ、とけたたましく警告音が鳴り響く。

 

「あ…れ?」

僚の顔から血の気が引いていくのがわかった。

「お…ま…何―――」

「あはは…間違っちゃったりして」

「ぶわぁか!早く出るぞ!」

「はは、もう片足はこれからだったり」

「…これ何のトラップだ」

訊かれた香が苦笑しながら目の前の計器類を指さす。

一部だけが素人の突貫工事のタイマーになっていて、警告音と共に60秒のカウントダウンが始まっていた。

「だ、大丈夫!60秒もあればもう片足抜けられる」

「…誰がすぐ行くって?」

「はは…行けたらいいな…な~んて…」

信用できん、と言わんばかりの視線が刺さる。

 

「と、とにかく僚は逃げて!」

それでなくても動きが鈍っているのだから、と香は言葉を飲み込んだ。

実際僚は限界だった。

 

セスナのエンジン音。

 

追い立てるような警告音。

 

脈打つ音が煩い自分の全身。

 

ガチガチと小刻みに震えるのを抗うように歯ぎしりする奥歯の嫌な振動。

 

自分を置いて逃げろと無茶を言うパートナー。

 

全ての不快感が限界を超えようとした頃、

「あ~、うるせえ!」

僚が突然咆哮した。

 

「んな、きゃああああ!」

背後から急に抱きつかれた香が悲鳴を上げた。

強引に服の中に滑り込ませてきた左手はブラジャー越しに香の左胸を揉みしだく。

「何すんのよ―――ッああ!」

首筋に温い息がかかったかと思えば其処へがぶりと噛みつかれ、あまりの痛みに咄嗟の言葉が出てこない。

 

「ったたた…痛い、僚!」

我に返った香が抗議すると、るへ!と首筋を噛んだまま僚が唸った。

ブラジャーのホックをちぎる様に外し、直に揉みしだき、ついには足りないとばかりに鷲掴みにされる。

まるで獣だ。

「何す…っん!」

「引ん剝かれないだけでもマシだと思え!」

 

 

 

 

 

そのまま静止すること十数秒。

フ―ッ、と威嚇音を立てる自分をめちゃくちゃだと俯瞰できる頃には歯の震えが治まり、指先に血の通う感覚が戻って来る。

鷲掴みにした香の乳房から微かに心音が伝わり、僚は何度か瞬きをした。

 

「……」

 

相変わらずエンジン音に警告音が被さる不快な空間にもかかわらず、さっきまでのような閉塞感が感じられない。

目の前の曇りがワイパーをかけたように鮮やかに開けていく。

視線が定まり、直視できなかった機内の全てに目を向けることができるようになった。

右手で必要な計器類のスイッチを押し、それから迷わず3本のコードのうち1本を切る。

タイマーのスイッチはあっさりと切れ、警告音が沈黙した。

ただひとつ、エンジン音は未だ鳴り響いている。

香の両足が自由になると僚は叫んだ。

「走れ!」

 

 

 

 

-*-*-*-*-

 

 

 

 

 

あんな仕掛けしてくれたのは一体どこの誰だ。

訊かれてそのままを答えれば

「絶っ対に潰す」

銜えたばこをしながら助手席の僚が毒づく。

火をつける前にギリギリと噛み千切ってしまい、結局3本目にしてやっとで火が付いた。

車内禁煙と言いたいところだが最良の精神安定剤なのだろう。今日は仕方ない、と香は見てみぬふりをしながらハンドルを握っていた。

 

「絶っっっ対に潰す」

もう一度僚が吐き捨てた。

さっきよりも力がこもっている。

この状態で『潰す』と宣言しているのだ、あの宗教団体は明日にでも壊滅するだろう。

金や時間を浪費して神を信じても結局無駄なのねと香は苦笑した。

 

「はは…まあ落ち着いて」

「落ち着いていられるかよ!大体おまえが下手に隠そうとするから―――」

「下手で悪かったわね!それにあたしだって痛かったんですから!」

「何がだよ!」

「思い切り噛みついたじゃない!」

「そんなことしてね―――…」

「した。胸だって掴まれた」

 

信号が赤になる。

サイドブレーキをかけた香がぐるっ、と僚の方に体を向け首筋の赤紫にくっきりと残っていた歯形を見せつけた。

 

「……んな、」

 

二の句が継げないままの僚に『これも見ろ』と言わんばかりにⅤネックの胸元に指を掛け、広げてやる。

ブラジャーからちらりと覗くのは、白い柔肌に無数の爪痕。

「……」

 

あまりにも夢中で朧気だった記憶がうっすらと蘇る。

顔を上げればこちらの言い分の勝ちだと言わんばかりの香の視線とぶつかり、もう一度胸元に目をやった。

「……」

またまた顔を上げれば今度はジトッとした視線を投げてくる香。

「は…はは…脱がされなくてよかったね香ちゃん」

「他に言う事は?」

「す、すいましぇ~ん!」

 

怒ったふりをして青信号に合わせてめいっぱいアクセルを踏み込む。そうして香は忍び笑った。

 

 

(あんたがそれで正気を保てるのなら、あたしはそれで構わないけどね)

 

 

「あん?何か言ったか」

「な~んにも!」

 

突き抜けるような青い空。

セスナが一機、飛んで行った。

 

 





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