困った事がある。
考えた事もなかった。

稀に見る…いや、断じて見ない。
とにかく緊急事態だ。
いくら考えても分からない。


寝乱れたシーツ。
微かな残り香。
手に残る、感触。



「…………」




これから俺は、どうすりゃいいんだ?























落ち着け。
落ち着け冴羽僚。

昨夜は香と、そうだ

香を――――――――






『僚ぉ…!』







「あーっ、落ち着け俺の朝もっこ!」

明らかに並みの朝立ちではない程そそり立つもっこりに叱咤する俺。情けねぇの。

今日の天気は。
株価は。
イラク情勢は。

一生懸命関係ない事を考えようとするがどうしても昨夜の出来事が生々しく思い出されてくるから堪らない。

ええい、腹をくくれ冴羽僚。
俺は香を抱いた。
もう後戻りはできない。
それ位解ってるさ。

だが一線を越えたから何だ。
アイツに優しくすりゃいいのか?
ナンパもやめりゃいい、依頼人にもっこりもやめりゃいいってか?

「…うーん」

いや、それよりも今だ。
ハンマー振り回した勢いでうまく俺の部屋から抜け出した香はそのまま朝食の支度に取りかかっている。
これからアイツにどんな顔すりゃいいんだ?


「う〜ん……」


腕組みしたままベッドに胡座。
考えれば考える程に頭が垂れ落ちてくる。
ベッドに全身が埋もれてしまった頃
「僚」
突然名前を呼ばれ、思わず
「のわあッ!?」
大声を上げて胡座を正座に直して座った。






……何故だ。

思春期のガキじゃあるまいし、視線がロクに合わせられない。








「ごはん」
「お…う」

多分香も同じだったのだろう、一言会話でドアが閉まる。
ちらりと見えたドアを閉めるその手は、指先までもが真っ赤だった。

お前な。
しなくてもいい緊張がこっちにまで伝わってきちまうだろうが。
何だって朝っぱらからこんなに気まずい思いをしなきゃならないんだ、クソッ。


「だからやめときゃよかったんだよ」


誰に言ってんだか、責めるような独り言を言いながらシャツを被る。

どうする。
俺は考える。

このまま食卓に付いたとしても、ユデダコになった香と気まずい朝食だ。
どうする。












結果、俺はそのままシャツの上にジャケットを羽織り、こっそりとアパートを脱出する事にした。
自室のドアを開ける。

…と、漂ってくるのはコーヒーの芳ばしい香り。

匂いで解る。
何か特別な事が無い限り滅多に挽かない高級のコーヒー豆だ。




「………」


まあ、アレだ。
ほ、惚れた女が健気にもこんな男の為に朝食を用意してだな…
しかも昨日の今日でだな…
俺も覚悟をだなあ…


罪悪感と責任感に背中押され、俺は逃亡を諦めた。
ぐ、と息を止め勢いよくドアを開ける。


「おんやあ〜?今日の朝食は何かな〜…」



テーブルの上には湯気をたてるコーヒー、ハムエッグ、トースト。
それからジャムの瓶に敷かれた一枚のメモ。
迎える人間は誰もいない。

『依頼がないか見てきます 香』
「………」

案外俺と香は似ているのかもしれない。きまりが悪くなるとすぐ逃げる。

「さすが俺のパートナーだよ…」

取り敢えずは考える時間が出来た。
俺は張っていた気をこの上無いほどだらしなく緩めた。
文面から言って暫くは俺と顔を合わせずにいるつもりなんだろう。
湯気が出ているうちに俺は朝食を平らげる事にした。






コーヒーを飲み干すと
「あー…疲れた」
テーブルに突っ伏す。
何で朝食を食べるってだけでこんなに体力消費せねばならんのだ。





そのまま静止する事数分。





「!?」

俺はある事に気付いてガバリと起きあがった。





「まずいぞ…」

香のやる事だ、大体の想像がつく。
まずメモに記したからには依頼を見に行くだろう。
無いと肩を落とすもアパートには戻らない。いや、戻れない。

大した金も無い香が時間を潰す場所といえば

「まずいぞ…非っ常にまずい…!」

あいつの様子を見りゃ、昨日何があったか一目瞭然じゃねえか。
美樹ちゃんは自分の事のように喜んで大騒ぎするだろうし、タコ坊主は面白がって噂を広めるだろう。
かすみちゃんや唯香がいれば更にまずい。人間スピーカーだ、あいつらは。

「冗談じゃねえぞ…!」

今追えば間に合うかもしれない。
俺は全速力で香を追った。










−*−*−*−










駅には香の姿はない。
数十分のタイムラグが命取りになったかと例の喫茶店に足を運んでみる。

念のため気配を押し殺し、植え込みからこっそりと中を伺うと。



「………」





カウンターに顔を伏せた香とその周りで興奮して飛び跳ねるかすみちゃん、カウンターの向こうには嬉しそうに微笑む美樹ちゃんに加え満足そうに腕を組む海坊主。
「……はは」
最悪の事態だ。
此処に入っていけば末路は知れている。


「僚ちゃん退散…」



こっそり、こっそり…





「こんなところでどうしたの?僚」

カツン、と背後からヒールの音。

「げ!」
「何よそんな情けない顔しちゃって。また香さんの事怒らせたのかしら?」

怒らせる方がまだマシだってんだ。
それより頼むから…

「ま、丁度いいわ。頼みたい事があったのよ。取り敢えず入りましょ」
「わ、冴子待て!」

頼みたいのはこっちだっての!

冴子が俺の腕を引き、立たせようとする。
海坊主がこちらを見たような気がした。

(やべ…!)





ドタドタドタ………





「ハッハー!僚!お前もついに年貢を納めたってわけだ!」

うるせえ、近づくなタコ坊主。
肩を組むな、暑苦しい!

「え?何?どうしたの?」
初めはきょとんとしていた冴子も次第に空気が読めてきたらしい、不敵に微笑むと
「隠すことないじゃない」
そう言って奴らの輪の中に加わった。
ちらりとカウンターを見る。
香が顔を真っ赤にしながらオロオロしているのが目に入った。

お前ね…こうなる事分かっててどうして猛獣共の檻に飛び込むよ。

「香!帰るぞ!」
ズカズカと店の中に入り、香の腕を掴む。
きゃあー!と女達の歓声が上がるのを無視してそのまま腕を引く。

「あ、ちょっと…僚!」
香が狼狽えるのを更に引っ張ると
「ちょっとお〜、優しくしなさいよ冴羽さん!」
「そうそう!女って強引なのも嬉しいけどやっぱり優しくされるのが―――――」
「あぁ〜、うるせえ!」

真っ赤になった香を小脇に抱えると俺は脱兎の如く喫茶店を飛び出した。













−*−*−*−













「ちょ…僚!」
「……」
「僚ってば!」
「あ?」

二度呼ばれてやっと我に返る。

「一人で歩けるから…もう降ろして」

そうだった。
小脇に抱えたままの香を降ろしてやると、途端に通行人の視線が気になってくる。

「……帰るぞ!」
「あ、うん」

(あ〜、何だってんだ俺ぁ!)

横に並んでくるのを待たずに俺は歩き始めた。
小走りで香が後を追う。

「ごめんね僚」
「何がだよ」

俺はポケットに手を突っ込み、乱暴に足音立てて歩く。
口調まで乱暴になってしまったかもしれない。





「…嫌、よねやっぱり」
「あ?」
「へへ…」


嫌な予感がして振り向く。
今日初めて香と視線が合った。

案の定、香は自虐的な笑みを浮かべて俺を見上げている。

「何言ってんのお前。行くぞ」
「……あ」

長い事目を合わせていられない。俺は気まずさからふいと視線を逸らした。


「……」


いや、待て。
香は絶対に誤解を始めている。此処で一言言ってやるのが…

「あのなぁ、香」





〜〜〜〜♪






「…携帯」
「あ〜、わーってるよクソ!」

今日は何もかも上手く行かない。
苛立ちながら通話ボタンを押した。

「もしも――――」
『リョウ!お前、お前ついにカオリと――――』

ピッ。
反射的に指が電源を切った。
ミックだった。

あんなバカの大声、勿論聞こえていただろう。
俺は無言で携帯電話をしまうと目の前で口をパクパクと動かしている香に手を差し出した。

「出せ」
「え?」
「携帯だよ。ちょっと貸せ」
「あ、うん…」
香がジーンズのポケットから携帯電話を取り出し、素直に俺の掌に置いた。


ブルブルブル……


タイミング良くバイブレーションが着信を告げる。誰からかなんて見なくても解る。
今度はこっちにかけてきやがったか。

『ミック』と表示された液晶を、電源を切って見なかった事にする。
それを香に返さずに、自分の懐に入れるとまた歩き始めた。

「返してよ!」
「やなこった。」
「返せ!」

凄んでもムダ。
返したらお前。
しどろもどろになりながら答えるだろ、訊かれるがままに!
冗談じゃねえっての。















アパートについてすぐにした事は向かいの住人の不在を確認する事だった。

「香、何重にも鍵かけとけ」
「そこまでしなくても…」
香が躊躇する。が
「ちょっと冴羽さん、香さん!」
誰も居ない筈の上階から待ちかまえていた麗香が降りてくる。

「姉さんから訊いたわよ?ついに――――」
「はいはーい、もっこりのお誘いならまた後で!」

興奮してはしゃぐ麗香の肩に手を掛けそのままドアの向こうへと押すと、すかさず香が鍵を掛けた。

「地下のルートも塞いでくるわアタシ。これじゃあ唯香ちゃんが来ないとは限らないものね。」
「はは…是非そうしてくらはい……。」


















カーテンを閉め、電話線を引き抜く。
どうせ何の足しにもならない事ぐらい分かっちゃいるが何もせずにはいられない。



「籠城してるみたい。」
地下を塞いで戻ってきた香が苦笑した。
「仕方ねぇだろ、これ以上騒がれてたまるかよ」

念の為、盗聴器が無いか室内を確認しながら俺が返事をすると、香の溜め息が聞こえてくる。

「…ごめんね、僚」
「何がだよ」
「だってアタシなんかじゃ」
「おい」
「そうよね…」

慌てて振り向く。
今日二度目に見た香の目は困ったように笑っている。





「僚が望むならさ…」





イラッ。






「何も無かった事にするから」








イライラ………









「アタシなら大丈夫、気にしないから…」












ぷつ………ん。




















朝からの言葉にできない苛立ちが沸点に達した。

「何が大丈夫だって?」

気付いた時には香を押し倒していた。










さて、これからどうするか。
やったはいいが、俺にも解らなかった。
























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