ゆうだち
男の洗髪は至極単純だ。
特にこの男の場合、輪をかけて短時間である。シャンプー後のトリートメントさえもしない事だってざらだ。
洗髪後、タイルに残る泡もそのままに僚は浴槽に浸かった。
「ただいまー」
声を張り上げるが返事はない。
「もう出かけたのかしら?」
そう呟く香の声音は僅かに震えている。
激しい夕立の中、走って買い物から戻った所為で食料の入ったビニール袋の底は小さな水たまりが出来ていた。
香の髪からは絶えず水滴がポタポタと垂れ、シャツはぴたりと肌に貼り付いており下着のラインはくっきりと見えている。
「あぁ?、もう」
鬱陶しさに声を荒げつつ、香はバスルームへと直行した。
丁度良かったと香は思う。アパートを出る前、湯を張っておいたのだ。
バスルーム入り口に買い物袋を置き去りにすると、直ぐさま脱衣所へ駆け込んだ。
照明が点けっぱなしになっていた事を光熱費の無駄だと嘆きつつ肌に貼り付く不快な衣類を全て取っ払い、バスケットに放り込む。
そして裸身を隠す事なく豪快にドアを開けて一歩踏み出そうとした直後、硬直した。
「え」
「おわあっ!?」
浴槽には僚がのんびりと浸かっていた。
「きゃあああっ!」
バン!
慌ててドアを閉めてから、やっとで自分が僚の前に裸を曝していた事に気付く。
香は再び叫ぶとしゃがみ込んだ。
「いやあ?っ!」
「んな…何だ?」
「で、出かけたんじゃなかったの!?」
ガラス戸越しに聞こえてくる声が上擦っている。
「夕飯まで待てって言ったのお前だろ」
「……そうだった」
すぐに出ると言った僚を捕まえて、せめて食べてから行きなさいよと念を押した事を今更ながら思い出す。
「それにしても香ちゃんってば大胆。新手のチカン?」
僚がいつもの調子でからかうと、恥ずかし紛れに香は叫ぶ。
「だっ、だってお風呂に入ってるなんて知らなかったもの!」
「電気点いてただろ」
「で、でも脱衣篭に服が無かったわ!」
「洗濯機に放り込んだ」
「風呂に入れなんて言ってないわよ!」
「風呂に入るなとも言われなかったぜ」
「………」
ついに返す言葉も見つからなくなり、香はガラス戸にもたれ掛かると溜め息を吐いた。
「とにかく早く上がってちょうだい」
「お前なあ!俺だって入ったばっかなの!」
「こっちは寒いんだから早くしてよ!」
「無理言うな!」
「無理でも何でも???クシュッ!」
香の小さなくしゃみが聞こえてくる。
僚が何気なく視線をやれば、座り込んだ香の背中は、裸身のままひたりとガラス戸に貼り付いていた。
ぼやけて見えるその肌の色に、僚は背中からゾクゾクと疼きが込み上げてくるのを感じる。
なるべく興奮を抑えつつ僚は口を開いた。
「……風邪か?」
「雨の中走ってきたのよ。寒いんだから早くしてよ」
「そんならお前も一緒に入ればぁ?」
「!」
ガラス戸越しに、香が立ち上がるのが見える。
整った後ろ姿のラインが浮かび上がったかと思うと、香はくるりとこちらを向いた。
「そ、そんな事できますか!」
磨りガラスでも見えるモノはぼんやりと見えている。
香はそれにさえ気付かないらしく、未だ仁王立ちになって一緒に入る事を拒否している。
僚は苦笑した。
「風邪ひくぞ」
「……」
仁王立ちのまま、香は暫し考え込む。
体を重ねる仲になったとは言えまだ日も浅い。どうしても羞恥心は先立つ。
それに裸を目の前にした僚が手を出してこないとは到底思えない。
そんな香の思考など、とうにお見通しである僚は
「何もしないっての」
そう約束した。
「う、嘘!」
「本当」
「怪しいのよアンタの場合!」
「神に誓おうか?」
「……あたしってそんなに魅力ない?」
何時か何処かで聞いた台詞。浴槽の中で僚が派手に転んだ。
「おま、時々おかしいぞ!」
「い、いいわよそんなに言うなら入るわよっ!」
何で怒ってんだか、と僚は思うが黙っている事にした。
「目、閉じてて!」
「わーったよ」
やがて扉の開く音と共に香がバスルームへと足を踏み入れた。
「目開けたら承知しないわよ」
「俺だって目の毒になる事はしたくないの」
「何を?!」
ハンマーで僚を無理矢理浴槽に沈める。
その間に香はシャワーで体を洗い流し、浴槽の隙間に滑り込んだ。あっという間の荒技だ。
「……お前」
「何よ」
「風呂にバスタオル巻いたまま入るか?普通」
背中合わせで入る風呂はいくら広い浴槽とはいえ息苦しい程の狭さだ。背に当たるバスタオルの感覚に僚は呆れて突っ込んだ。
「う……」
香は言葉に詰まる。
実際こんな恰好をして風呂に入るのは露天風呂ロケで裸体を惜しげに隠す芸能人だけだと昼間見た番組を思い出す。
「しかも何だこの体勢は!狭いったらありゃしねえ!」
お互いそっぽを向きながら膝を抱えるその体勢。
耐えきれずに僚が叫んだ。
「アンタがバカみたいにデカイからいけないのよ!」
「バカ言え、デカイのはいい事だ!」
「おのれは何の話をしとるんじゃい!」
「あー、うるせえ!」
ざぶり、と背後で湯船の揺れる音。
僚が耐えきれずに香を向いた。
バスタオルを巻いたままの白い肌が目に入る。やけに眩しい。
「きゃあ!こっち見ないでよ!」
香は振り向かずに大声で叫ぶ。
「安心しろ、お前の背中ごときでもっこりできると思うか?」
「んなっ、それは……」
「冴子や麗香の背中ならともかく、だ!」
「う……」
そこまで言われると女として立つ瀬が無い気もする。しかし此処は身の安全が先だ。
「俺を信じろ、香」
「……わかった、信じる」
香は頷くと肩の力をやっとで抜いた。
項が露わになり、髪から落ちた水滴がするりと背中を伝っていく。
「……ごくり」
「何?」
「ご、ゴッホン!」
生唾を飲み込む音を態とらしい咳払いで誤魔化す。
香は初めそれに気付かなかったが、やがて異変に気付き始めた。
「………僚」
「何だね香クン」
背中を向けたまま香は尋ねる。
返事をする僚の口調は白々しい。
「アンタさっき言ったわよね、『お前の背中でもっこりできるか』って」
「ん?ああ、言った……かも」
「ならアタシの背中に当たってるコレは何」
「な…ナニかなぁ…はは……」
「結局節操ナシにもこもこもこもこもっこりさせやがってこの変態?!」
「お前それ自分で言うか!?」
問答無用、と香がハンマーを振り上げる。
両手が塞がれたのをいい事に、僚は即座に手を伸ばした。
「ひいっ!?」
「なはは、もっこりバストいただき!」
剥ぎ取られたバスタオルは浴槽の底で情けなく揺れた。
「嘘つき!」
背後から香の胸を揉みしだきながら僚は高笑いをする。
狭い浴室の中、それは良く響く声で。
夕立はとうに上がっていた。